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吾輩はクチバシである。 こう言うと、嘴がものをしゃべるとは面妖な、と思われる向きがあるかもしれない。しかし鳥類の口蓋部が自らの意志で言葉を発することなどもち ろんあるはずがない。吾輩はクチバシであり、嘴ではない。 それではクチバシとは一体なんなのか。吾輩とは果たして何者なのか、ということになる。 その問いに吾輩はこう答える。 吾輩は形而上のキャラクターである、と。 purope★papiroというフザけた名前の男が作り出した、想像上の存在である。実在はしない。 そもそもひとたび自分の体を見下ろせば、日を見るよりも明白な事実として、こんな生きものが弱肉強食を謳う実世界で生きていけるはずがない ことに気付かざるを得ない。 これは吾輩がどうしてクチバシという名前を押し付けられたのかにも関連することだが、吾輩の頭上には、実に吾輩の首から頭にかけてと同程度 ほどもある巨大な黄色の嘴状のものが、トンと鎮座しているのである。 papiroの無責任な説明によると、これは頭頂部の毛が進化したものということだ。 これについて「犀と同じ原理だ」などと、彼がしたり顔でのたまっていたのを、少なからぬ怨嗟の念を交えつつ、今でも吾輩はしっかりと覚えてい る。ただしこのときの彼は、いちばん大事なことを失念していたと言わざるを得ない。それは「犀は体重が何百キロもある」という事実である。そんな 犀ならばこんなもの、1本と言わず2本3本と、幾本あろうとも気にならないかもしれないが、体長せいぜい1メートルほど、ましてや細身の吾輩に、 この発達した毛の固まりはいささか荷が重いというものだ。 さらに重量以上に苦言を呈すべき点があって、なんと言ってもそれはこの設計である。 そもそも鳥類にとり嘴とはなんのためにあるかと言えば、食物の確保のためにそれが都合よいからである。草を食んだり肉を噛み千切ったりする ことなく、小さな虫などを主食とする鳥類は、木の幹や岩の隙間など、狭い所に入り込むそれらをついばむために歯が進化して嘴となった。 実際、吾輩クチバシにももちろん嘴はある。眼の下に位置し、上部と下部に分かれ、自らの意志により開け閉めすることが可能な、真実なる嘴 だ。そしてそれは体の比率からすると、ごく平凡な嘴である。サイズも色も形状も、なんの意外な印象を見た者に与えないことだろう。これだけでは とても吾輩がクチバシという名を冠しているとは思うまい。 クチバシという名を冠するとは我ながら気の利いた表現をした。まさに吾輩はクチバシを冠している。 吾輩の体を説明するため、まず形状の似ている存在としてボウリングのピンを想像していただきたい。いや、なにもゲームを始めるわけではない から、そんなにたくさん思い浮かべる必要はなく、1本で十分だ。 それの底部に、ピンの全長と同程度の長さの脚を2本生やす。脚の太さは、体を支えることができるだろうギリギリのものでよい。脚力にはあま り自信がない。 そしてゆるやかなひょうたん型のピンのくびれ部分、吾輩における首から肩に掛けての部分を起点として左右両側に、ささやかなもので構わない ので、翼もつけていただきたい。空気を持ち上げ体を宙に浮かすことなど万回試しても不可能で、歩く際のバランスを整える帆の役割しかもはやな さぬ翼だが、それは吾輩にとっての誇りである。ただしこの誇りという言葉から、吾輩のことを空の世界を失った鳥として見、吾輩がかつて風と親し んでいた頃のことを憂い、栄光を失った今、かつて自分は立派な鳥であったのだという事実に拘泥しそれを主張するため翼に固執している、と捉え るのはどうかご免被りたい。もしも貴君が鳥類のすべてが飛べるもの、もとい空を飛ぶものイクォール鳥であるなどと思っていたとしたら、それは大 いなる間違いであり、かつ飛べない鳥に対して大いなる侮辱である、ということを貴君はしかと認識するべきだろう。飛べないのではない。飛ばな いのである。だからこの翼は吾輩にとり、かつて飛ぶ能力を与えられながらもあえて飛ばぬことを選択したという勲章であり、よって誇りなのであ る。 どうも翼についての言葉がいささか冗長になった。次に首から上の説明に移ろう。 手っ取り早く理解していただくために、まずその白い台地に、ペンギンを頭に思い浮かべつつ、一般的な鳥の目玉と嘴を置いてほしい。吾輩の顔 はそこからさほど逸脱することはない。ちなみにペンギンと吾輩は鳥類における系統図からするとさほど近いとは言えないが、脚の長さで吾輩が 圧勝であることを除外すれば割合と形状は似通っているし、翼を水中での進行に使用する彼らの生き方は、母なる大空から見限られた鳥としてあ る種の憐れみは禁じえないものの、感心しないことはないし、共鳴し得ない部分もないではない。 しかしペンギンには頭上に自身の頭ほどにも巨大な嘴状の物体がない、という点でやはり吾輩とは決定的に異なる。これがあるとないとでは生 きる上での難易度がまるで変わってくるし、だからこそ彼らが形而下に在って吾輩が形而上に在るという差異も生じてくるのだろうと思われる。 脚の長いペンギンの頭上に巨大な嘴的なものを乗せた架空の生きもの──それが我輩、クチバシである。 設計がおかしいという話だった。 たとえば吾輩が直立した体勢で、正面にある壁に向かって少しずつ歩を進めるとする。するとどうなるか。吾輩は自らの体で壁の固さを感じること は決してなく、大きく前方に突き出た頭上の物体が壁にぶつかり、つかえ棒のようになり、10センチあまりの空間を残したまま、吾輩はどうしても 壁に触れることができない。そしてこれがただの壁ではなく、その表面をたくさんの毛虫がウヨウヨと這う樹木であったらどうか。ましてやそれが垂 直方向に面する樹皮などではなく、足元にゴロゴロと転がる岩であったら。 かくも吾輩が現世において生存競争に打ち勝ち、遺伝子をつなげていくことは難業だ。よって進化論的に考えるならば、吾輩のような生きものは 他の生きものによって駆逐されなければならない。もしくは仮にクチバシという種が成立するとしても、それは突然変異によって頭上の物体がやけ に小さいものとなった個体から始まらなければならず、だとするとやはり吾輩はその、脚の長いペンギンという程度の特徴を持つその新世代に駆 逐されなければならない。どちらにせよ吾輩にこの世界のニッチがもたらされることはあるまい。 そこで吾輩は最後の手段として、形而上に生きることを決めた。それならば代謝する必要がないので、生きものとしての最重要案件である餌の 摂取に大いなる欠陥を有する吾輩でも、立派に生きてゆくことが可能だ。 そうして形而上の世界をフワフワと漂っていた吾輩はある日、くだらなき新しき生きものを発明することに凝っていたpapiroの思念に引き寄せら れ、彼の閃きとして結実し、今に至る。 よって吾輩は吾輩であり、クチバシであり、papiroの思念であり、形而上の存在なのである。 だから書き出しを「吾輩はクチバシである」という、例の文豪のそれに則ったものにした以上、当然のごとく貴君が求めるであろうそれに続ける文 として、吾輩はこう述べることになる。 吾輩はクチバシである。名前もまたクチバシである。 クチバシはこのような形状を持つ鳥類の一種である生きものに与えられた種名だが、それと同時に吾輩自身の名前でもある。クチバシが吾輩の ほかにも存するのなら、吾輩は喜んでそれと厚き握手を交わし、クチバシという種名であり個体名であるものを喜んで擲つことだろうが、残念なこと にpapiroの脳内で結晶化したキャラクターに過ぎぬ吾輩に、そのような同輩はありえない。よって吾輩の名前はクチバシなのである。 ところで吾輩はここまでで散々、吾輩は形而上の存在であるとのたまっているが、よくよく冷静になり考え、一部その確信に揺らぎが生じた。す なわち揺らぎとは、papiroの脳内という確固たる所在地のある吾輩は、果たして本当に真なる意味で形而上の存在なのであろうかという疑問であ る。しかも吾輩にはここまで長々と述べてきたように、その設計こそ無責任な創造主により破綻しているが、一応の形状というものが世界との間に 確約されている。こうなると吾輩を形而上の存在と見ることに不都合な点は、思いのほか多い。 形而上とはもっと漠然とした概念、たとえば愛情だの正義だのといったものに与えられるべき称号なのではあるまいか。なるほどそれらに形らし い形は一切ないし、居場所も頓と不明である。そもそも間違いなく存在するのかを証明することさえ不可能である。にも関わらず言葉として発すれ ば、それを受けた各人はそれぞれの思索により、それらの概念を漠然と理解するのである。 こうして考えると、やはりそれらは形而上の真たるものだ。それらの諸概念に較べれば、吾輩とはよほど具体的な存在であり、こうなっては形而 上であるなどとは口が裂けても言うことができぬ。それに吾輩の真実なる口は思いのほか小さく、弁論にはまるで向いていない。そのためこんな 自己立脚点にゆらぎの生じた非常時にこそ、クチバシたる生命体である吾輩の一大特徴と認めざるを得ない頭上の嘴状の毛塊がパカリと開き、 舌鋒鋭くアイデンティティを主張すればよいものを、と思わずにはいられないが、残念なことに、それのせいで餌を得ることができず吾輩を形而下の 世界に住まわせぬその物体は、ただただ沈黙を貫くのみである。 さてそれでは形而上の世界を駆逐された吾輩は、一体どこに行けばよいのであろうか。上でないということは、やはり下であろうか。そうかもしれ ぬと思う。先ほど形而下の代表としてペンギンを例に出したが、そもそもpapiroの頭の中を居住地とする吾輩にとり、存在としての吾輩とペンギンに 区別はないと言ってよい。papiroはその人生の中でペンギンを見たことこそあれ触ったことは未だないが、視覚にしろ触覚にしろ、それらは眼なり 皮膚なりから発せられる電気信号が脳に伝わって生じるものに過ぎない。papiroの五感は脳が支配し、もとい脳こそがpapiroである。 だとすれば、そこで同じく電気信号のひとつとして処理される吾輩とペンギンの間に、一体いかなる差異があると言えようか。吾輩はこの決して 狭くない脳内において、愛情や正義を目撃したことは一度たりともないが、ペンギンはまさに今のこの瞬間、吾輩のすぐ隣にいて吾輩の頭上の塊 を興味深げに見上げている。 その愛くるしき挙動がなんとも癇に障り、吾輩がかの生きものの有さぬ長き脚で払うように蹴りつけたら、かの生きものは簡単に後ろに転がっ て、ジタバタと短き手足を震わせ、もがいた。 これで証明された。やはり吾輩は形而下の存在であると言えそうだ。 いつまでも吾輩の存在論に言葉を連ねていても仕方あるまい。ここでそろそろ話の矛先を吾輩から、言わば吾輩にとり主人ということになるだろ うpapiroに移すことにしよう。なにしろ果ての見えぬ今後に渡り、吾輩がこの場でのたまうであろう吾輩の思念は、吾輩がpapiroの脳内に生きる存 在であるがゆえに、そのすべてがすなわちpapiroという個人の体験に基いたものとならざるを得ない。もちろん吾輩は吾輩として、papiroから独立し た自由なる意識を有しているため、papiroの言動に対し頷くこともあれば呆れることもあるが、どちらにせよ吾輩が触れるすべてのものはpapiroとい う媒体を通したものなのである。papiroの読んだ本しか吾輩はその内容を知らぬし、papiroの食べたものしか吾輩はその味が分からぬ。つまり papiroの存在は吾輩にとって絶対的だ。よってここにpapiroについて語る必要性が生じ、これよりそれを行なうこととする。 しかし語るとは言ったものの、残念なことにpapiroという男は、言葉を尽くすに値せぬつまらなき男である。これは彼の日々を彼と同じ視点で常に 眺めている吾輩が言うのだから疑いようがない。もしも吾輩とpapiroの意識が入れ替わり、吾輩が自由にpapiroの体を動かすことが可能になったと したら、社会におけるpapiroという男の価値は相当に跳ね上がることだろうと、吾輩はいつも歯痒くてならぬ。 その歯痒さは朝よりすぐに開始される。papiroが起床するのはいつも8時ごろである。これは世間一般の大学生、それも講義のあまりない4年生 にしてはなかなかに早いものであるように感じられるが、大学生という範囲で捉えられた起床時間の俊秀など、さほど価値のあるものではあるま い。その証左として、8時に起きたpapiroが取りも直さずはじめになす、テレビの点灯という行為によってその画面に展開されるプログラムは、決し てこれから急いで通勤もしくは通学する人間に向けて手短にニュースを伝えるものでは決してなく、すでにそれらを送り出した主婦のための、ワイド ショーや奥さま情報のそれとなっている。そしてpapiroは睡眠という、前日に溜めた脳内の記憶と身体の疲労を併せて処理するというすばらしき行 為の直後、すなわちpapiroの頭が1日のうちでもっとも明晰である時間帯において、それらの番組を頻繁にザッピングしながら漫然と眺めるというこ とをする。言うまでもなく、これは尊大なる無駄である。曲に合わせて骨を整える体操をじっと硬直しながら眺め、一般家庭の晩ごはんが突撃され ている様をぼんやりと眺め、果ては未検査で自らのそれを知らぬくせに血液型占いまで眺める。これらには直接的にpapiroの糧となる知識はない し、間接的に天啓を与える要素もまるでないことは言うまでもない。 その後、もさりもさりと簡単な朝食を摂りつつ、ぼやぼやとインターネットをする。このインターネットというものは、ともすればそれまでのテレビより もよほど無駄であるかもしれぬ。テレビが、実際にそれが役立つかどうかは別として、とりあえず情報と呼べなくもなきものを流しているのに対し、 日々インターネットで眺めるものは個人の日記に類するものであることが多く、ほとんど単なる私生活の覗き見だ。しかし驚くべきことに、ネット上に はそのように公開されている日記が恒星の数ほどあり、そこには惑星の数ほどもの人々が日夜訪れているのだ。ネットとは覗かれ好きと覗き好き で成り立つ面妖この上なきデータ上のシャングリラだ。そして恒星にとっても惑星にとっても、それへ投じる時間が壮大なる空費であることは疑いよ うがない。 papiroは驚くべきことに、このどちらもしっかりと行なっている。まるであえて虚ろなものを求めて行動しているかのように、彼は起きた直後からエ ンジン全開で意味のないことしかしない。その手腕には吾輩もさすがに感心せぬわけにはいかない。ちなみに恒星としてのpapiroは、自らの文章 をそんじょそこいらの垂れ流しの日記と区別し、自分のそれこそは真に価値のある読みものであると信じて疑わないが、実際に彼がウェブ上に公 開している文章がどんなものかと言えば、自分がどれほど女の子を好きであるかというようなことを、手を替え品を替え吼えているだけに過ぎぬこ とを言い添えておく。 朝食を終えた後は部屋に戻り、ふたたびテレビを眺めたり、ブログのための文章を紡いだり、本を読んだりする。吾輩は、この読書という習慣だけ は、papiroの生活の中で褒めてもよいものであると思う。昼食を経てpapiroはようやく学校に向けて出発するわけだが、駅のホームや電車内でも、 とにかく本を読んでいる。さらに言えば講義中でも、目線は教壇ではなく机の上の本に落とされていることが大体だ。読む本のジャンルは実に雑駁 で、純文学とファンタジーと経済書以外ならばほとんどなんでも読むと言っていいだろう。もっとも本質的にあまり頭の程度がよくなく、さらには集中 力がないため電車で向かいの座席に女学生でも坐ろうものならそれだけで本を閉じるしかなくなるpapiroが、その多岐に渡る読書傾向でどれだけ 内容を理解し、知識を獲得しているかは分かったものではない。だがpapiroと感覚器を共有し、しかしpapiroとは異なり頭脳明晰である吾輩にとっ ては、その広範囲の知識摂取はありがたかった。 そして学校をあとにし、本屋のバイトを終えたpapiroは、自宅に帰ったり帰らなかったりする。papiroは夜の零時ほどを過ぎると、驚嘆すべきほど の傾斜角の落下線で頭が働かなくなるので、帰宅してから何かをなすということはまずない。しばし深夜番組を眺めた後に眠りに就き、価値のな い1日を終える。 そして自宅に帰らない日はどうしているのかと言えば、恋人の家に赴いているのである。 papiroの恋人、その名をPAPIKOという。 まずもって述べなければならぬのは、この類似した名前についてであろう。ここにはもちろん恣意がある。付き合ってみたらたまたまふたりとも同 じようなペンネームだった、ということではもちろんない。 ずばり言い、これはPAPIKOがpapiroを真似して起こった現象である。いや、真似と言うよりもむしろ、盗用と言ったほうが適当かもしれない。 ところで「同じようなペンネーム」(PAPIKOのそれは正確にはハンドルネームというものか)と吾輩は口にしたが、もしもpapiroが吾輩のその言葉 を脳内で直接的に耳にすることができたとしたら、間違いなく彼は気分を害し、ネギでも食んだごとくに顔をしかめることだろうと思われる。 なぜならばpapiroとPAPIKO、そのふたつの名前には千尋の谷のごとき深き溝があるからだ。 まずpapiroのpurope★papiroという名前だが、これは苗字部ということになるだろうpuropeから、実を言えば先行して存在している。そしてその puropeとはなんなのかと言えば、ずばり埼玉県所沢市にある商店街の名前である。その名もプロペ通りという。所沢駅西口から右手方向を見ると すぐ眼前にある、ファーストフードから居酒屋、ドラッグストア、デパート、ブックオフなど、多様な業種が軒を連ねる所沢のメインストリートである。そ の名称の由来と言えば、たしか所沢市が日本初のプロペラ飛行機のなんやらかんやら、ということで付けられたのだったと記憶している。ここらへ んの所沢に関することは、吾輩が誕生する前のことなので実を言うとあまり詳しくは知らない。ちなみに細かいことを言えば、プロペラが由来のため 英語で表記するとprope streetとなる。uがないのだ。 そしてなぜこの通りの名称がpapiroのペンネームになっているのかと言うことだが、それは当時PAPIKOが、駅からこの通りを抜けた先にあるマン ションに住んでいたことに拠る。 しかしこの段階で、ある情報通は首を傾げるかもしれぬ。papiroが自らをpurope★papiroと名乗り始めたのは、3年前の夏である。そしてpapiroと PAPIKOが交際を始めたのは、2年前の夏である。ここにはちょうど一年間の空白がある。papiroは「PAPIKOがプロペ通りの先にあるマンションに 住んでいるから」という理由でpurope★papiroと名乗ったのに、その命名当時にpapiroとPAPIKOの間に接触はなかった。日本語で会話をしたことも なかった。理由としての思い出だけが先行している。 ここにはどんなカラクリがあるか。それはつまり、papiroはPAPIKOと友達どころか知り合いでもなかったくせにプロペ通りの先に彼女の住居があ ることを知っていた、なぜ知っていたかと言えばプロペ通りを歩く彼女を追跡していたからだ、ということになる。 平たく言えばこういうのを世間ではストーキングと言うらしい。噂によるとpapiroは話をしたこともない彼女の1週間の時間割をだいたい把握してい て、当時の趣味と言えばもっぱら「PAPIKOの下校を見守ること」であったそうだ。そしてその主たる舞台となったのがプロペ通りというわけだ。 そのようなわけだから、papiroはペンネームを考えるにあたりプロペ通りを採り入れることにした。あまりにも歪んだ形ながら、papiroにとってプロペ 通りは大事な存在であったのだ。そこからは簡単で、『プ』と『ペ』があるのならパ行にこだわろうということで、『パ』と『ピ』と『プ』と『ペ』という、『ポ』 を除いたパ行音をひとつずつ入れ、それに唯一欠けているオ母音としての『ポ』の替わりに、ふたつのロを黒星で区切った前部と後部にそれぞれ 加えた。そしてpurope★papiroが誕生した。簡単とは言うものの、一応バランスは考慮されているのはさすがと言ったところか。つまりpapiroは、今 でこそ自分のことをもっぱら、「papiro」や「破皮狼」などと呼んでいるが、そもそもはpuropeが起源なのである。 そしてPAPIKOは、そのpapiroの女の子版ということで『子』をつけただけの名前である。ただそれだけなのだ。エピソードもなければ字面の考慮も ない。もちろんアイスのパピコともなんら関係ない(それにあれは綴りがPAPICOである)。安易なパクリに過ぎないのだ。そしてそのパクった対象と 言えば、実を言えば自らの被ストーカー体験がモチーフとなって誕生した名前なのである。なんだかいろいろな意味で因果であると思う。 ところで吾輩は先ほどPAPIKOというそれはペンネームではなく正確にはハンドルネームであると述べたが、その言葉が暗示するように、PAPIKO もまた個人でホームページを運営している。というよりもpapiroがホームページを始めたのはPAPIKOの助力に拠るところが大きい。PAPIKOがいな ければpapiroはホームページなど作れていなかったろう。そしてさらに言えば、吾輩がpapiroの脳内に存在として結実したのは、papiroが日夜ブロ グを書き、新しい生きものを捻り出すという行為をしていたからに他ならなく、だとすると吾輩という存在はPAPIKOによって創造されたと考えることも 可能かもしれぬ。吾輩の主人は女性をストーキングし、そのストーキングの末に吾輩は誕生した。まるで吾輩はレイプによって誕生した子どものよ うだ。どちらにせよ子どもに罪はないとしみじみと思う。 吾輩が形而下の存在であるということはすでに導出された結論だが、つい最近、その結論が補完される事柄がpapiroによってなされた。それと はすなわち、吾輩の実体化である。 そもそもは「夏に向けてキャップ帽を被ろう」という着想から始まったことらしい。そしてキャップ帽を被るにあたり、papiroは自らの手でデザインをな すことにし、そのモチーフとして吾輩を選んだのだ。これはまったくもって頷ける話であると思う。吾輩ほど均整が取れていて麗しい物体はそうそう ない。吾輩を脳内に有する者として、施すデザインに吾輩の姿を選択するのは言わば当然のことだろう。 しかしデザインすると決めたものの、それをいかにしてなすかというところでpapiroは悩みに陥った。いざとなるとその手段はなかなか浮かばな い。油性マジックで描くなど、失敗した場合のことを考えるととてもできぬ。そこで仕方なくpapiroは、吾輩の姿を描く予定にあるまだ白紙のその帽 子を頭に乗せ、東急ハンズという店に足を運んだ。このハンズという店は、一言でその性質を表すのは困難な巨大な雑貨屋で、とにかくこういった 帽子に絵を描くなどという作業においては、絶大なる力を発揮する類の店である。どういう手段でそれを行なうにしろ、ハンズに行けば高確率でそ の道具が置かれているだろうし、逆にハンズをもってしてもそれがままならなければ、それは殆ど不可能事であるというような、そういう店である。 papiroは何フロアもあるこの店の、まずプリンタ用紙のコーナーに赴いた。Tシャツなどにプリンタで印刷した画像をアイロンで貼り付ける用紙があ るということは知っていたため、そのようなものを求めたのである。果たして売り場には数多くのそういった用紙が並んでいた。しかし品揃えが多す ぎる功罪として、どれがこの作業に適しているのかがよく分からぬ。仕方がないのでpapiroは近くにいた店員に帽子を提示し、こう訊ねた。「この帽 子の白い所に自分で描いた絵を貼りたいんですが、どの用紙がいいんでしょう?」中年の男性店員の答えはこうである。「あー、これは生地がポリ エステルだから無理ですねえ。こういうのは全部、アイロンで貼り付けるんですよ。だから基本的に布素材じゃないと無理なんですよお」 なんたることだろうか。早くも第一の方法を否定されてしまった。 困ったpapiroは情報を集めるため、次に帽子売り場へ移動した。驚くべきことに、ハンズには帽子や鞄も売っている。その帽子売り場の、今度は 若い女性店員に訊ねる。「こういった帽子のこの白い部分に自分でデザインをつけるとしたら、どういう方法があるんでしょうか。いまプリンタ用紙売 り場に行ったら、ポリエステルはアイロンができないから無理だと言われてしまって……」「ああ、それならこちらです」 そう答えた店員にpapiroが連れて行かれたのは、同じフロア内にあった缶バッヂやビーズやワッペンのコーナーであった。求めているものとはも ちろん違う。papiroは内心で、こういうことではないんだけどなあ……、と思いつつも、「ああ、ありがとうございます」とお礼を述べ、その案内してく れた女性店員に気を遣い、アメリカ国旗のワッペンなどを、しばし眺めた。 しかしその的外れの案内は、papiroに新たな着想をもたらした。すなわちそれは、吾輩のワッペンを作ればいいんじゃないか、というものである。 かくしてpapiroは次に、手芸用品フロアへと移ることとなった。 その売り場では、色とりどりのフェルトがそれぞれ折り紙ほどの大きさで、一枚ずつ販売されていた。そこから黄色、白、黒、灰色という吾輩を構 成する色のフェルトを抜き出したところで、papiroはあることに気付き、はたとその手を止めた。それは、フェルトもまたアイロンで接着させるものであ り、だから「ポリエステルでアイロンできないから無理」とプリンタ用紙売り場にて言われた先ほどとまったく同じ理由によりこの帽子にフェルトを貼 ることはできないのだ、という事実では決してない。papiroはそんなこと百も承知で、それについてはなにもフェルトだからってアイロンではなく縫い 付ければそれで済む話である、と心得ていた。だから想起したことはそのことではなくて、なにも色とりどりのフェルトでワッペンを作ろうとしなくとも (うまく作れるかも疑問だし)、先ほどのプリンタ用紙売り場に並んでいた、ポリエステルには使用できぬという、アイロンでTシャツにデザインを貼り 付けるあの用紙、やはりあれに吾輩を印刷し、それを帽子ではなくこのフェルトにくっつけ、そしてそれを鋏で切り取り、縁を縫い付ければよいので はないか、ということを閃いたのである。 なのでpapiroは黒や黄色のフェルトを棚に戻し、台紙となる白のそれだけを購入し、ふたたびプリンタ用紙売り場へと舞い戻った。そしてそこでた くさん並んだ用紙から、どれがよいかを物色しているとき、papiroは他の製品とは少し毛色の異なるひとつの商品を発見した。それは転写シールと いうものである。これは印刷したインクを転写して貼り付けるもので、「アイロンを使わないので肌や機械にも貼り付けられる!」というのがその謳い 文句であった。papiroはこれを購入した。 家でやってみたら、フェルトの出る幕もなく、当初イメージしていた通りにそれが実現した。 かくして吾輩は実体化した。 papiroはいま、あのハンズの中年男性店員が階段で転んで命を落とすことを望んでいる。 かくして吾輩は実体化した。 papiroは大学4年生という境遇にあるからして、ソツロンというものを書かねばならぬらしい。 ソツロンとはすなわち卒業論文の略であり、大学にて過ごした4年間で、学んだり学ばなかったりしたことについて、必要に迫られて書くひとまと まりの文章のことである。学生が学長より卒業を認められんためには、どうしてもそれを提出せねばならぬのらしい。そう考えると卒業論文という名 称は、まずもって実際的な目的がその第一に来ており、学問的な啓発など微塵もないことが簡単に察せられて、実にくだらないと思う。学問とは閃 きの発露から生み出されるものだろうにと、日々これ発見と思念に彩られ生きる吾輩としては、人間のあまりに形式的な欺瞞に呆れるばかりだ。 しかしそうは言っても、papiroのような学生がこれでソツロンも書かずに大学を卒えてしまうことを考えると、やはりそれはそれで問題があるかとも 思う。なにしろ、とかく学生の生活は安穏にすぎる。たとえば書道で言うならば、ヘタクソな楷書は観ていてなんの感慨も湧かされずただただ頭を 通り過ぎていくだけのものだが、それに対しヘタクソな草書は犯罪的に悲惨である。どこが字の開始でどこが終了かも分からず、そこにあるのは文 字ではなくて、ただヌネヌネと紙の上を這う線虫のごときものである。よって線虫に通ずる4年間を過ごしてきたpapiroとしては、文字の切れ目程度 はせめて明確にせねばならぬ。つまりソツロンとは、papiroにとって線虫の皺を昆虫の節へと転変させる進化の秘薬のようなものかもしれぬ。 その秘薬のテーマとして、昨年来から触れてきている漢詩をpapiroが選択したのは、もうだいぶ前のことだ。しかしテーマはすんなりと決まったも のの、そのモチーフ、どういった角度からそれを論ずるかという点を決定するのに、線虫たるpapiroは殊のほか時間を掛けることとなった。 つまらない現代漢詩への批判……漢詩のルールを守るとはどういうことか……エロ漢詩という新ジャンルの提案……漢字とそのイメージ効果 (女偏の漢字を中心に)……日本人が漢字を使うことについて……。 さまざまな変種が誕生しては、定着することなくpapiroの脳髄からその姿を消していった。その様を見て、吾輩は進化とは一朝一夕で叶うもので はないのだとしみじみと思った。そして吾輩はこれまで、吾輩はpapiroの脳内世界を棲み家としたことにより外世界のそれのごとき生存競争から解 脱したと思い込んでいたが、決してそんなことはないということに気付かされた。papiroの脳髄もまた、有限なるノイロンの椅子を知識たる猛者たち が奪い合う、外世界となんら変わることのない、弱肉強食の法則が支配するサバイバル空間だ。もとよりpapiroの脳髄はさほど体積の大きなもの ではないからして、使われない情報はどんどんと駆逐され、最後にはふたたび引き上げることのできぬ暗黒の奈落へと叩き落される。幸いなこと に吾輩はいまpapiroの脳髄のポールポジションとでも言うべき位置を保持しているが、この日々がいつまでも続くという保証はないのだ。まったく、 とかくこの世は棲みにくい。 話が横道に逸れた。papiroのソツロンのモチーフの話であった。これがつい先日、ついに決定したのである。そしてそれは上記のようなモチーフを 練り上げるという形でではなく、ソツロンの題名としてpapiroの頭にパッと舞い降りた。やはり真なる思念とは閃きから誕生するもので、それをもたら すものとは無意識にほかならぬようである。ついでに言えば、吾輩もまた練り上げた末に生まれた存在では決してなく、無意識から一瞬にして papiroの頭に結実した。つまり吾輩の出生場所もまた無意識である。しかしそれなのに、吾輩は無意識というものをこの目で見た記憶はまるでな い。不思議なものだ。果たして吾輩がpapiroの脳髄を彷徨っていて、無意識なるものに鉢合わせする日はやってくるだろうか。そしてその場合、吾 輩の目にはどのようなものが映るのであろう、吾輩の精神にはどのような思いが去来するのであろう。 どうも話がまとまらない。結論のない存在論ほど中途半端な言葉はないだろう。この話はもうやめることにして、とにかく吾輩と同じく無意識なる 母から愛とともに弾き出され意識の世界に舞い降りた、papiroのソツロンの題名をとっとと紹介することにする。 『逆にくだらないジョークとしての漢詩』 これがそれである。 なるほど母は偉いもので、papiroの漢詩に対する思いを収斂させるに相応しい、余剰も不足もないスッキリとした題名である。題名とはそのあと につづく文章を一言で表すものであり、papiroの恩師による『1首の短歌の背後には1000枚の散文がある』の言葉から発展して考えれば、ポエム でなければならない。そしてこれはポエムであると思う。『逆に』というところが優れている。卒業論文の題名なのにいきなり『逆に』なのだ。いきな りそんなことを言われても、作者以外はなにがどう逆なのか分からないではないか。その無責任さが実にpapiroの人格を表していると思う。 果たしてpapiroはこれにより線虫から昆虫に進化することができるのだろうか。期待したい。 とは言えここで忘れてはならないのは、線虫から進化した昆虫にも絶滅したものはいくらである、ということだ。さてどうなるか。 それにしてもpapiroは始終、女の子のことを考えている。 そのあまりの度合には、思念に彩られて生きる吾輩でもさすがに驚かされるほどだ。よく「男なんていつでも女のことを考えている」という文言が あり、それは遺伝子の伝達を金科玉条とする畜生ならばたしかにそうかもしれぬが、実際のところ畜生のように生きる目的をシンプルに捉えること などとても不可能である、複雑すぎるほどに複雑に分岐し、発達した社会生活を営むヒトにおいては、それは決して真実ではありえない。世界を安 定させる方法や、われわれ生命が宇宙に在る意味など、彼らには異性のこと以外に考えなければならぬテーマとでも言うべきものが五万とある。 そしてそれについて思考し、場合によっては言葉にまとめることは、生物進化のひとつの最終形態である有言語生物──ヒトの、全生物を代表し て課せられた使命である。 だのにpapiroはその使命を果たすことを拒否している。異性のことばかりが常に頭を占めている。 とは言え、それならばそれでよい。実際のところ、そんなヒトはpapiro以外でもいくらでもいる。センター街や道玄坂に行けば、そうでない者を探す ほうが難しい。人間動物園と評される社会基盤に守られ、生命倫理の意識が希薄となった、どんな下等生物であっても最低限持ち合わせている だろう生命体としての矜持さえをもなくしてしまったヒトという生物は、ある意味で生きものとは別種の観念的な存在と成り下がり、居場所もなくふ わふわと漂っているのが現状だ。しかし余剰を作り出すことを可能とする科学力が誕生すれば、そういった生きものでないような生命体が誕生する こともまた道理だろう。だれもが大自然と向き合い、死を意識して生きていく必要がなくなったのである。彼らが生きものでない生命体になるのも無 理はない。そして生きものでなくなったヒトは退行し、本能の赴くままに異性を求めるばかりである。ところで、かつて人類のある種族は優生学とい う観念を持ち、下等な遺伝子を有していると目される人間には子どもを産むことを禁じ、優秀な遺伝子だけを未来に伝達しようと考えた。後にこれは 悪魔の思想として忌避され、今ではこれを口にした者は白い目で見られるらしいが、しかしそれは欺瞞であると吾輩は思う。かつてのそれが世界 大戦の意識された時代に興り、すなわちそれが富国のため、引いては世界支配のためという明瞭な恐怖政治から導き出されたものであったのに 対し、ごく一部の機関が強大な権力と科学力を持ち、世界を影でコントロールし、貧富の差を広げ、動物園の中に囲った人々の生命としてのパワ ーを奪うような世の中とは、ある意味で立派な優生思想である。今ではまだ人間動物園という名称は比喩に過ぎないが、何百年後かには必ず畜 生としてのヒト種が誕生しているはずである。彼らは飼育者の都合でその人生を操作される。このシナリオには恐怖政治のそれの開き直りもなけ れば、もちろん畜生たちの日々行なっている弱肉強食的な合理性もない。ぞわぞわとするような歪で卑怯な何者かの思惑だけが、気配としてのみ 感じられる。これはきわめて恐いことだと吾輩は思う。 話がひどく横道に逸れた。道ではなく、方角を間違えた。papiroが異性のことばかりを考えているという話だ。しかし言いたいのは、それは無自覚 に柵に囲われている人種とは別の意味においてである、ということである。なぜならpapiroはそのことに自覚を持ち、その事実を客観的に眺めてい る。つまりpapiroは本能的に異性を求めているのではなく、それを科学的考察で論じるのだ。要するに余計にウザくて見苦しい、ということだ。その ことを理解して、一連のこの文章は読んでいただきたい。 そんなpapiroは先日、「水着を裸にするテクニック」を体得した。これは写真や映像に映った水着姿の少女を視神経から脳へと伝播させる間に、そ の水着部分を少女の肢体から剥離し、脳へ到着するのは素っ裸の少女の画ばかり、ということにする術である。これはなかなかに優れた技で、な るほどたしかに脳髄を棲み家とする吾輩が享受するのは裸の少女ばかりで、よって吾輩は久しく「水着姿の少女」という状態を目にしていないほど である。水着部分はpapiroの神経途上で除外されてしまうため、吾輩の所までは到達しないのだ。よって吾輩は、papiroがよく目にしている水着の 少女が映っている雑誌には、少女が身に付けておらぬ水着のみが中空に置かれている、カタログのようなページもあるのだが(つまりpapiroが水 着を削除して眺めている写真たちは、実際は少女ではなく水着を紹介している写真だということだ。グラビアではなくファッション誌、とpapiroの言葉 ではなるか。そしてpapiroに言わせるとそれは、女の子が自分自身を際立たせるのではなく、水着がうまく見えるよう自分自身を装置のひとつとし 努めている様がよいのらしい)、それはさすがにそのまま見えるので、脳にやってきた裸の少女にその水着を合わせなければ、吾輩は「水着の少 女」というものを見ることができない。これはなんとも言えぬ間の抜けた倒錯現象であると思う。 papiroはこの技術にさらなる磨きをかけ、次のステップとして「夏服を裸にするテクニック」をこの夏のうちに会得したいと目論んでいるらしい。しか しこれは容易なことではなかろう。いくら少女たちの夏服のシャツが往々にして透けていて、かつスカートが短いとは言え、水着との表面積には大 きな隔たりがあるというものだ。これに挑戦するpapiroは、ともすれば大自然に挑戦する冒険家よりも無謀な男かもしれぬ。papiroが目指すのは大 洋でもなければ山脈でもない。精神世界の見果てぬ先だ。 もしかするともう二度と見られぬ夏服少女を、この夏はしっかりと目に焼き付けようと吾輩は思った。 それにしてもpapiroはよくも毎日、欠かすことなくブログに文章を書くものであると思う。 もちろんそれ自体はさほど珍しいことではないかもしれないが、papiroのすごいところは、なんの反響もないのにずっとそれを続けている、というこ とだろう。本当に毎日まったくなんの反響もないのだ。もう何ヶ月もひとつのコメントもない。100%ない。正真正銘ない。どのような内容の文章をア ップしても、誰からもなんにもひとつもない。コメントもトラバもメールもない。ぜんぜん返ってくるものがない。それなのにpapiroは毎日なんかしらの 文章を書き、アップし続けている。これはすごいと思う。よくもこれほど達成感のない行為を続けていられるものだと、ほとほと感心する。 papiro自身はこのことに関し、「どうせ個人サイトなんて自己満足さ」などと嘯いている。しかしそれは必ずしも真情ではない。彼の脳髄に暮らし、 彼の思念がダイレクトで伝わってくる吾輩は、そのことを誰よりもよく知っている。その証拠として、ブログの記事にコメントが付けられた場合ブログ の管理会社からそのことを通知するメールが届くようになっているのだが、メール画面に「新着メールがあります」の表示を見つけた際のpapiroの胸 のドキドキは尋常ではない。脳は震え、至る所から分泌液が放出され、吾輩は立っていられなくなるほどだ。もっともpapiroが震える手でマウスを 操作しメールを開封しても、大抵の場合のそれはリクルート情報で、papiroは怨嗟の念から内容も見ずにそれを削除してしまうこととなる。 やはり平素papiroが自分のサイトに関しどれだけ自分だけのシャングリラの創造を気取っていようと、人間とは所詮「間」があって成り立つもの、 他人からの評価なしにはなかなか精神が持つものではない。 よってどうしても感想が欲しいときは、PAPIKOに電話をしてそれを求めるということをする。PAPIKOにしてみればいい迷惑だろうことは間違いな い。PAPIKOは、ウケを狙ったようなことを書いたときには「おもしろかった」と言い、エロいことなんかを書いたときには電話口でただ笑い、小難しい ようなことを書いたときには「すごかった」と言う。まったくもってその程度の感想なのだが、それはそれでいいとpapiroは思っている。砂漠で脱水症 状になれば、人はラクダの小便でも奪い合って飲む。要するにそういうことだ。 そしてその際ネットの先輩たるPAPIKOに、どうやったらコメントとかたくさんもらえるだろうか、ということを相談もする。それに対するPAPIKOの答 えはいつも決まっていて、「ネットワークなんだから、サーチエンジンに登録したり、他の人のサイトに書き込んだり、リンクを増やしたりしなくちゃ」で ある。 これはまったくもって道理であると吾輩も思う。PAPIKOのサイトを除けばまったくと言っていいほど他サイトと関わりを持たぬpapiroのサイトは、ネ ットワーク上にありながら孤島であると思う。ネットとは網状に繋がっているからネットなのであり、これではネットじゃないじゃないか、という気さえ する。こんな状態に自らを置いておきながらコメントが来ないことを憂いているのは、大いなる矛盾である。情報というものが重要視される現代にお いて、どんなに名前を知られている大企業であっても日夜のコマーシャルを欠かすことはないのである。それなのにネットワーク上におけるガラパ ゴス諸島のような僻地にあって外界との連絡を持とうとしないpapiroが「人が来ない」「コメントが来ない」とはまったく笑わせる。 だからpapiroの頭の住人としてpapiroの不断なる精神の健康を願う立場にある吾輩としては、諸手(翼)を挙げてPAPIKOのアドバイスに賛成す る。どうしてもコメントが欲しいのならば、papiroは即刻、自分のそれと似た傾向のあるサイトに忍び込み、その掲示板に当り障りのない、感じのよ ろしい文言を書き込んで、さりげなく自らのホームページのリンクをそこに貼るべきだ。そうすればそこにラインが誕生し、真なるネットワークというも のが成立するというものである。 ところが、それはそうなのだが、上記のようなpapiroとPAPIKOの「どうすれば……」「ネットワークなんだから……」という会話は実際のところ、これ までにもういくたびも繰り返されてきたのである。papiroはもちろん1度目のその掛け合いから、PAPIKOの話の理屈をきちんと理解している。しかし これまで吾輩がさんざん述べてきたように、事態は一向に改善されていない。 この原因はpapiroの意味不明のプライドの高さにあり、要するにそれは、そのような努力をしてサイトに来てもらい、「ああ、この人はたくさんの人 に観てもらって褒めてもらいたくてがんばっているんだな」なんて感想を持たれたらもう最悪で、そんなことになるくらいだったらむしろ、誰からも発見 されていない孤島のほうがよっぽどいいという感情であり、結局それが邪魔をしてそのような積極的な行為をためらわせているのだ。いや、ためら うと言うよりも拒否していると言ったほうが正確である。papiroはこれからもずっと、そのような行為について「体制への迎合だ」「真のエンターテイメ ントは他人を介在する「間」には存在しない」などとホザき、実行することはないのだろう。そして相変わらず人の出入りの少ないサイトでは、反響も ないのだろう。そしてときどき不安になって、PAPIKOに「どうすれば……」と相談するのだろう。そしてPAPIKOは「ネットワークなんだから……」と答 えるのだろう。そしてpapiroはそれを否定するのだろう。 大人の階段昇るpapiroは、幸せは誰かがきっと運んでくれると信じている阿呆である。 papiroは先日発生したロンドンの同時爆発テロ以来、なにか考えている。 脳内に暮らす吾輩もまた、そのまとまらない思考の渦に巻き込まれている。 なにしろあの事件は、単純に「無差別テロだ」「テロリスト許すまじ」と済ましてしまうには、タイミングがあまりにも示唆的であったと思う。 すなわち、先進国諸国がオリンピックの開催地の座をめぐり優雅な争いを繰り広げ結果的にそれがイギリスのロンドンに決定した翌日、そしてそ のイギリスで主要国の代表者が集まり世界の諸問題の解決法や今後の方向性などを話し合うサミットが開かれる前日に、イギリスでテロが引き 起こされたのである。 4年も前になるニューヨークのそれなどはあまりにも唐突で、テロリスト側の動機に(あくまで先進国側の立場としては)ピンと来るものがなく、テ ロリストとはすなわち人を人とも考えず殺戮する悪魔のような輩だというイメージが定着したが、今回のそれは決してそうではない。 吾輩の主人たるpapiroは先進国側の人間であり、その脳内に生きる吾輩も当然また先進国的な思考を持つことになるが、その吾輩でも近ごろ の先進国の言動には大いなる欺瞞を感じることを禁じえなかった。世界的イベントの開催地は先進国たちで勝手に協議され、なにしろそのイベント は規模が規模だけに恵まれた国でしか開催不可能で、しかしそれは結果的にその土地に多大なる経済効果をもたらすものである。その権利をも ぎ取るために各国の実力者がアピールをし、見事に勝利した国の国民は我を忘れて歓喜する。その2日後に、まったくおなじ場所を舞台にして「ア フリカの貧困問題について」などというテーマで先進国による話し合いがなされるという。どうも馬鹿にしているではないか。 もちろんこの世に恵まれた国と恵まれない国があることは仕方ない。吾輩は決して共産主義ではないから、財産の分配などという妄言は吐かな い。むしろ吾輩はそれに強く反対する者である。人々の個性はあまりにもバラバラであり、だからこそ世の中は成り立つのだし、「世の中は成り立 っている」という畜生は決して持つことのできぬ哲学的な思念を持てるということは、すなわち知力があるということで、知力がある以上はプライドや 欲も発生する。そしてプライドや欲があれば、隣の者よりも自らは上位に立ちたいと思うのは当然であろう。財産を分配しても、人はふたたび互い の財産を奪い合うだけである。よって共産主義は成り立たぬ。かくして世の中には恵まれた国と恵まれない国が誕生する。 それなのに経済的な支援という。これこそが大いなる欺瞞である。先進諸国は、優生思想に続き、自らが否定し駆逐したかつての国々の方策を 模倣し、世界的な共産主義へと進もうとするのか。もちろんそんなことはない。言うまでもなく、支援などポーズに過ぎない。もしも本気で支援をし、 アフリカが恵まれない国という立場を脱し強い経済力をつけたらどうなるかを想像してみるがよい。そんな事態をそれまでの現先進諸国が歓迎する はずがなかろう。そもそも考えてみれば、アフリカがここまで貧困に喘いでいる原因の多くは先進諸国ではないか。言うなればアフリカをはじめとし た諸地域を踏み台にして、彼らは今の立場に就いている。彼らが本気でアフリカを救おうという気を持つはずがないことは明白である。これは支援 ではなく飼育である。動物園化である。完全に馬鹿にしている。 この流れは今後さらに加速し、それがつまり不気味な優生思想である。これを打開するにはどうすればよいか。正体の見えぬ優生思想の恐怖に 晒され、先進諸国の横暴により将来的な自らの人種の途絶が現実味を帯びたものとなりつつある。これを一体どうすればよいのか。これにはふた つの方法があると思う。ひとつめは、日本のようにプライドを棄て先進諸国に取り入って隷従し、動物園の中にそれなりの自分たちのスペースを確 保する方法。しかし形骸化していないきちんとした宗教のある人種ではこの方策を取るのは不可能だろう。だからふたつめ、できうる限りの抵抗を することにする。 すなわちテロである。 もちろん言いたいことはテロリズムの肯定ではない。しかし吾輩は、テロリストをせん滅し足並みの揃った世界協調を、と唱える気にもなれない。 papiroの思考の渦に巻き込まれている吾輩の頭の中でも思考の渦が巻き、吾輩の頭の中に棲む吾輩もまた、その渦に溺れかけているかもしれな い。 papiroはかつて高校時代、クラスメイトからこんなことを言われたことがあるという。 「俺ってもしかしたら過去未来あわせて、宇宙でいちばんしあわせな人間かもしれない。いまの平和な時代の日本に生まれて、戦争とかなくて、貧 しくなくて、資源も俺が生きている間はなんだかんだでなんとかなるだろうし、きっとすべての時代を通していちばん悩みが少ないと思うんだよね」 本人としては軽々しく口にしたのだろうこの文言は、papiroの精神に石碑に刻み付けられたがごとく褪せずに残されている。papiroはときどきにこ の言葉を思い出しては、否定したり肯定したりする。なにもかもが欺瞞で、なにもかもが真実なのだ。なにをしても欺瞞なら、すべてに真実を貫けば よい。 まったく馬鹿にしている。 今更だがこの文章は、吾輩クチバシの思念から紡がれるものである。 とは言うものの、なにぶんその吾輩という存在が、papiroの思念から形作られたpapiroの脳内だけに棲む虚構のキャラクターであるがゆえに、吾 輩の思念とはすなわちpapiroの思念ということになる。これについては否定もせぬし、否定をしたところで勝ち目はない。吾輩の思念とは決して独 立したものではなく、いつでもpapiroという存在が操作している。ぶっちゃけそうである。 そのことを理解してもらった上で弁明したいことがひとつある。言葉に発したことではないので、あえて弁明せずとも済まされるのではないかとも 思うのだが、やはり吾輩の名誉のためどうしても一言断っておきたい。そのミスが決して吾輩の責任ではなく、papiroの不勉強に由来するものであ るという、そのことだけは。 すなわちpapiroが自らの作り出したキャラクターである吾輩を主体にして文章を書こうと決めた際、それを『吾輩は猫である』へのオマージュとして 書くということも同時に決定した。そしてpapiroは書き始めた。 papiroはいつもこうで、思い立つとその瞬間に、大した学習もせずにとりあえずそれを書き始めてしまう。ここがpapiroに、きちんと形となる作品の できぬ原因であると思う。今回のケースもそれだ。papiroはせめて、モチーフとする『猫』を読む程度のことはするべきだった。そうすれば『猫』が、 papiroがそれまでそう信じていたように新聞連載されたものではない、ということはすぐに分かったはずである。そして、「『猫』っていうのはたしか、 新聞に毎日おんなじ文量だけちょびちょびと発表され、猫のあれやこれやの出来事や思念を綴ったものだったから、それはブログとけっこう共通す るところがあるよな。うん、それじゃあ俺もクチバシの目線から、もちろん毎日は無理だけど、毎回おんなじ文量でいろいろなことを呟くような、そうい うのをやってみよう」などということは思わなかったはずである。あとから実際に読んでみてpapiroは驚愕したのだ。『猫』は新聞連載じゃなかった。 「ホトトギス」に何回かに分けて掲載されたのである。だから毎日いろんなことをちょびちょびと、でもなかったし、それぞれおんなじ文量でもなかっ た。すなわち思っていたようなスタイルではなかった。papiroは存在しないスタイルを模倣してしまった。 そんな文芸学科の生徒とは思えぬ勉強不足から来る凡ミスに振り回され、吾輩はいつもひとつの話題を一定の文章量で区切られている。papiro は、ここまで来れば意地でもそれを貫き通そうとしているようだが、それに振り回される吾輩としてはたまったものではないと思う。 それにもうひとつpapiroが原作を読んで動揺したことがある。これはわざわざpapiroのリクエストによって担ぎ出された吾輩にとり、きわめて屈辱 的なことである。 すなわち、papiroは『猫』を読んでこう思ったのである。 「あー、『猫』の猫は苦沙弥先生とは完全に独立した存在で、苦沙弥先生を外側から描写することもできるし、家を出てほかの人々の人間模様を描 写することができていいなあ。俺も精神的な存在とかじゃなく、そういう設定にすればよかった。そのほうが自由に好きなことを書けただろうなあ。 だって頭の中にいる虚構のキャラクターって、要するに俺だもんな。俺が口調を変えて喋ってるだけだもん。それって考えてみればあんまり意味な いよなあ。文体を変えただけで、やってることはこれまでのブログとあんまり変わってないし」 まったく人とは、papiroとはなんと勝手な生きものだろうか、と思う。勝手に吾輩を頭の中に置き、勝手に言葉を語らせたかと思えば、勝手に否定 している。なによりそれは自らの不勉強から起こった現象ではないか。勢いに任せて書き始める前にパラパラとでも『猫』に目を通しておけば十分 に避けられた事態である。脳内生物という設定ではなく、かの猫のように独立した肉体を持った真なる形而下の存在という設定を与えられれば、 吾輩は喜んでその役回りをこなしたはずである。papiroの入れぬ女の子ブランドの服屋の試着室に入り込み、着替え中の少女の描写することだっ て可能だったはずだ。自分で言うのも哀しくなるが、そこにこそわざわざ自分とは異なるキャラクターを樹立した意味があろうというものだろう。おな じ感覚器官を使用し、おなじ場所でおなじものを見ているのでは、吾輩の吾輩たる価値はたしかにないように思える。 しかし価値がないから棄て去られるようなことがあってはならぬだろう。ならぬはずだ。それに、生とはそもそも理由付けがあって成り立つもので はない。そんなことを言うならpapiroに問うてみようか。お前の生きる価値とは、意味とは、と。彼にその質問が答えられるはずがない。 そしてpapiroにその問いが答えられぬのならば、吾輩こそは答えようではないかと思う。 吾輩の生きる価値そして意味とは、吾輩にしか紡げない文章を紡ぐことである、と。 では吾輩にしか紡げない文章とはなにか。吾輩はpapiroが自身において未発見のそれを発見したのだ。 それはここ、papiroの脳内の描写である。このうちに在って積極的に文章を紡いでいるのは、幸いなことに現在は吾輩しか居らぬ状況だ。すなわ ち吾輩が独占してなんでも書き放題なのだ。これはいい。 そう決意して、吾輩はこれまで外界へと向いていた視線を、首をぐるりと廻し脳の内側へと向けた。 そんな吾輩の目にまず映ったのは、なにやら便箋に手紙を書き付けている、7人の少女の姿であった。 少女たちは吾輩の姿に気付くと、歓声をあげながら近寄ってきた。まさかpapiroの脳内にこのように具象化された少女たちが潜んでいるとは知ら なかった。キイキイと高い声を発しながらすぐ傍までやってきた少女たちに向かい、吾輩は自慢の低音でまずこう述べた。 「吾輩はクチバシである」 するとなにがおもしろいのか、少女たちはふたたび嬌声をあげた。思うにこのくらいの年齢の少女たちは、友達と一緒にいればこの世のなにもか もがおもしろいのであろう。 「吾輩はpapiroの脳内を描写するため、こうして脳内を徘徊している者である。君らもここにいるということは、吾輩とはきょうだいのようなものだろ う。吾輩に君らの設定──いや、素性を教えてくれたまえ」 吾輩は紳士的にそう述べた。しかしその言葉に対し、少女たちはきょとんとするのみで一向に返事を寄越さない。吾輩がおかしなことでも言った かのように、無邪気に笑い飛ばすこともなく、もはや少女たちは気味悪げな顔つきでこちらを見るようになってしまった。 これは困った──と、14の瞳に見つめられながら吾輩は思った。どうしようもない沈黙が場を支配した。吾輩も少女らもそのまましばし押し黙り、 互いの出方を探った。 その中で吾輩は考えをめぐらせ、ある重大な事実に行き着いた。 すなわちそれは、少女たちは自分らがpapiroの脳内に在るキャラクターだという自覚がないのではないか、という疑念であった。papiroが少女たち にどのような設定を与えたのかは現時点で吾輩にはさっぱり分からぬが、少女たちは吾輩のごとく自分は虚構の存在であるという意識を与えられ ずに在るものであるらしい。たしかに一般的なキャラクターとしてはそれが通常であるように思える。例外なのはむしろ吾輩のほうなのだ。そしてだ からこそ吾輩はこうしてpapiroの脳内を描写するための旅をはじめたのではなかったか。 papiroによって創造されpapiroの脳に住む吾輩を除いたすべてのキャラクターは、それぞれの縄張りを持ちそれぞれの世界観をそこに構築してい るのだ。それらを見て回り描写することを決意した吾輩は、そのそれぞれの世界観にうまく入り込み、その中心にある彼らキャラクターたちのアイデ ンティティを壊さぬよう、うまく立ち回らなければならぬのだ。吾輩はそのことに気が付いた。 しかしここでひとつ問題が発生する。それは、吾輩と同じくpapiroによって造られた架空の動物的な生きものならばなんとかなろうが、少女たちは 見たところ間違いなく「人間」のキャラクターであり、果たして少女たちの世界観にそもそも「喋る鳥」としての吾輩が矛盾なく受け入れられることは 可能であろうか、ということである。おそらく好都合にも少女たちの世界では鳥は喋れることになっている、などという奇蹟はあるまい。papiroはタチ の悪い叙述トリックを好み、叙述トリックとはつまり「一人称で語られていた物語の主人公が実を言うと人間ではなく犬でした」と最後に判明するよ うなそういう話なのであるが、よってもしかすると少女たちが彼女らの視点で語った文章を読んだだけでは、「少女たちは人間の中学1年生のよう に思えますが、実はこの世界は人間ではなく鳥が支配する世界でして、少女たちもまた鳥なのでした(だからクチバシのことも容易に受け入れられ ます)」というタチの悪いことも起こり得るのだが(それをするのがpapiroというものだ)、残念なことに目の前にいる少女たちはどう見ても鳥類ではな い。それは残念なことに吾輩の視覚がしっかりと保証するところだ。少女たちは、唇は桃色をしているし、歯は白い。頭部や眉などの局部以外はな いがごとしの産毛であるし、両端の肩からは先端が華奢な5本の指に分かれた細くつるりとした腕がしっかりと生えている。少女たちと鳥類は遡る ことなど不可能なほどの過去に分岐し、それ以降の血の交わりは一切なさそうだ。つまり少女たちにとり鳥類とはきっと──食べもの以外の何者 でもなかろう。 ここで吾輩は、今後の身の振り方について以下の3つの策から選択を迫られることとなった。 『あくまで「別の世界からやってきた喋る鳥」としての存在を主張し、少女たちにファンタジー的なエッセンスの受け入れを強要する(これはあくまで 予想だが、おそらくは内科検診で命じられるまま裸になるような純粋無垢な中学生の少女たちだ。「吾輩? そうだな……まあ鶏肉の妖精みたい なものさ」みたいなことを言えば、騙せぬこともないのではないか)』 『少女たちのアイデンティティなど顧みず、まず脳内生物としての吾輩の設定を懇切丁寧に説明し、そこから帰納して少女たちに自らの世界観を告 白させる(この場合、きわめて理性的な会話ができるようになるか、それとも世界が崩壊するかのふたつにひとつである)』 『いきなり人間と語り合うには、そもそも生まれてからこれまで独り言しかしておらぬ吾輩の対話能力に不安があるので、ここはいちどこの世界か ら脱出し、吾輩とわりと近い位置に在る、同じカテゴリ出身の生きものらなどと会話をし、そこでトーク能力をある程度まで身に付けた後ふたたび少 女たちのもとに帰ってくる(運がよければ道の途中でポパイでも落ちているかもしれぬし、そうすれば自信を持って少女たちとの会話に挑めようとい うものだ)』 かくして吾輩は3つめの策を選択すると、その瞬間に少女たちに唾を吹きかけ、少女たちが悲鳴をあげて混乱したところを脱兎のごとく駆け出し、 この世界を脱出した。 翼をはためかせながら吾輩は走る。吾輩は飛ぶことができぬので、走るほかない。 手紙少女たちが追いかけてきているわけではもちろんない。それでも吾輩は走らなければならない。なぜなら、吾輩は追いかけてくるものから逃 げるために走っているのではなく、新しい世界に行くために走っているからだ。新しい世界は歩行の先には存在しない。疾走の先にこそ待ってい る。 そんな吾輩に向かって、ゾンビのごとくすがりついてくる存在たちが在る。 papiroの脳髄にはそこかしこに泥のごときものがいくつも無数に落ちていて、それが近くを通ると吾輩に向かって襲い掛かってくるのだ。そしてそ れらが少しでも体に触れると、一瞬のトリップ感の後、吾輩の頭の中には奇妙なイメージが展開される。たとえばそれは、どうすればかわいいと思 った女の子の胸を揉むことができるだろうかという思索であったり、ある老人が死ぬ直前に8人の曾孫に囲まれながら人生最後の勃起をする情景 であったりする。そしてそれを見せるだけ見せると、彼らのひとつひとつはすぐに消えてしまう。 吾輩はそんな泥に対して思いを馳せる。もちろん走ることはつづけながらだ。 おそらく彼ら泥とは、papiroの頭に着想として浮かびながら、未だもって創作としての結実をみていない、幽体のごときアイディアたちなのだ。だか ら彼らは、俺を取り上げろ、俺を昇華しろ、と間断なく怨嗟の念を唱えつづけるのだ。俺のことをきちんとした形にしろ、と。 たしかに概念だけ与えられながら肉体を与えられず、いつまでも泥のようにあることは哀しいことであるに違いない。その状態で悶々としたときを 過ごすぐらいならば、概念さえ生まれぬほうがよいかもしれない。 とはいえ吾輩に向かいその不満を唱えても仕方ないというものだ。なぜなら吾輩もまたpapiroによって造られた存在、被創作体である。ましてや 吾輩は幸いにも「頭の上に大きな嘴のように見えるものが乗っかっている鳥」という概念を与えられた直後、ほとんど泥のような状態を経ずにイラス トとして描かれた幸福王子であるからして、吾輩が彼らの哀しみを真の意味で理解できるはずもなかった。 だから吾輩はなるべく泥らからの襲撃を避けて駆けてゆく。泥の持たぬ脚でステップを踏み、泥の持たぬ翼でバランスを取って、吾輩は新しい世 界を目指す。吾輩には吾輩の使命がある。 しかしひとつひとつの泥を避けるのは容易だが、いかんせんそれの数はあまりにも膨大だ。中空に上げた足の落下位置に泥があり、その泥を避 けようと逸らした足の先にも別の泥があっては、もはやどうしようもない。ばじゅり、という気色の悪い音を立てて泥は弾け、吾輩の頭の中にはその 泥の持つイメージが展開される。 そのとき吾輩が踏んだそれがもたらしたのは、ある少年の物語であった。 『彼は普通の少年である。昼間は友達と遊び、夜は家族とともに眠る。ちょっと年上のガールフレンドに恋をして、勇ましい父親に憧れる。そんなき わめて平凡な少年。そんな少年の生きる世界に、ある日遠い世界からいきなりの来襲がある。それはツルツルの体を持つ異様な生きもので、そい つらは少年の世界の住人たちをどんどん抹殺していく。そこには理由も容赦もまるでない。まるで獣でも狩るように捕らえ殺していく。少年の愛して いたガールフレンドは、その美しさなどまるで顧みられず八つ裂きにされた。絶大なる腕力を誇っていた父親は、来襲者の優れた武器の前に簡単 に倒れた。世界の終わりだった。森の中に隠れて最後まで生き残った少年は、そのエイリアンたちに決死の反撃を試みる。しかし当然ながら歯が 立たず、少年もまた無慈悲に殺される────かくして原人は絶滅し、ホモ・サピエンスが大地を制覇したのだった』 その泥のイメージを見せつけられて改めて思った。 厳しいことを言うようだが、泥がなぜ泥であるかと言えば、それは要するに実体化するほどの力がないからに他ならぬ。彼らはつまらないから泥 であり、泥だからつまらないのだ。おもしろければとっくにpapiroが形質を与えているだろう。吾輩が泥を必死になって避ける理由もそこにある。なに しろつまらぬ存在による世界観の開陳ほど、気分を害すものはこの世にない。 そのあとも注意深く、吾輩は走りつづけた。 どれほど走っただろう、景色がつぎつぎに現われては流れ去ってゆき、やがて一瞬だけのふっと意識が途切れるような浮遊感が襲った後、かくし て吾輩は次の世界へと突入した。 そしてそこで吾輩のことを待っていたのは、じっと静止しながら大きく開口する2体の大小の生きもの──キリンとネズミ──であった。 「吾輩はクチバシである」 吾輩は彼らに向かって自己紹介をする。すると、さすがはikimonoカテゴリ出身の同輩、彼らはすんなりと吾輩のことを受け入れ、自己紹介を返し てきた。 「わはひはオオフヒアホヒリン」 「ほふはオオフヒアホヘフミ」 口を閉じればいいものを、2体は涎をダラダラと垂らして喋った。涎の臭さに吾輩は顔をしかめた。 きわめて聞き取りにくい彼らの言葉だったが、外見からキリンのほうはオオクチアホキリン、ネズミのほうはオオクチアホネズミと言ったのだろうと 勝手に判断した。おそらく間違っていまい。どちらもそれ以外の名前の付けようがない、大きな口の阿呆そうなキリンとネズミである。 しかし見るからに阿呆そうだとは言え、生きものとしての名にアホという侮蔑語が入っているとは、なんとも不憫な存在である。もしも仮に吾輩が このような仕打ちをされたら、生きる気力をなくし、日がな一日ただただ口を大きく開き、そこに栄養となるなんかしらのものが入り込んでくるのを待 つ、というような活力のない生き方を選択するに違いないと思う。 「えー、吾輩はpapiroの脳内を描写するため、こうして脳内を徘徊している者である。まあ君らとはきょうだいと言っていいだろう。それで、よければ 吾輩に君らの設定を教えてくれたまえ」 吾輩はレターズガールズに対し唱え、不首尾に終わったものと同じ内容を、今度は目の前にいる2体の生きものに向かって投げかけた。 2体の生きものは、キリンは吾輩よりもかなり高い位置に顔があり、ネズミは吾輩よりもかなり低い位置に顔がある。キリンとネズミなのだから当 然だ。こうまで高低差があっては、もはや相手の目を見て話すという礼儀などはかなぐり捨てるほかあるまい。無理に両者ともと目線を合わせよう などと思ったら、決して軽くない吾輩の頭を支える首が疲弊し、血液の移動に異常が出て、大袈裟ではなく命を落としかねない。よって仕方なく吾 輩は視線を、ネズミのはるか頭上、キリンの胴体部あたりという、吾輩にとりもっとも置きやすい位置に固定することにした。それにもとより目を合 わせようと目論んだところで、面積の不自然に拡大した口により、目をはじめとした彼らの口を除いた顔のパーツはきわめて奥まった位置に追いや られているし、しかもその目線はと言えば天空を向いている。要するに彼らは、どちらにせよ対話者と礼節に沿った関係が築ける生きものではあり えないのだ。やはり阿呆は阿呆である、さすがは阿呆だ、阿呆しかるべし、と吾輩はおかしな感心をした。 問いに対し先に口をひらい──いや、言葉を返したのは、大きいほうの阿呆であった。 「わはひはひへほほほひヒリンは。ホホフフアホヒリンは。ほへひほうへほほへひはへほへー」 (私は見ての通りキリンだ。オオクチアホキリンだ。それ以上でもそれ以下でもねえ) 不思議なことに、口を最大限まで開いたままで喋る阿呆キリンの不明瞭な言葉は、吾輩の頭の中できちんとした物言いに変換され受け止められ た。これが吾輩の能力かpapiroの都合かは分からぬが、どちらにせよ便利であることは間違いなかった。ただし便利なことは間違いないのだが、 口を閉じて喋ればそれでいいだろうという気も依然として拭いきれない。 「ははふほほはんははひほはひ。はははへっへふひへんはんは。はははふはへっへふへへーは」 (話すことなんかなにもない。腹が減って不機嫌なんだ。早く帰ってくれねえか) 続けて阿呆キリンは言った。大口を開きながら喋り異臭を放つ涎をダラダラとこぼしているくせに、その発言は妙なほどにニヒルで、吾輩はきわめ て意外な感想を持った。名前と外見から導き出される阿呆というキャラクターイメージは裏切られたと言ってよかった。 そのギャップに吾輩は、もしかすると設定こそこのように不遇なものであるが、彼の真なる精神とはもっと高次で純潔なものなのではないだろうか と疑いの念を持った。さながら下層カーストに生まれた天才児のごとく、与えられた設定こそ恵まれないものだが、決して心は落ちぶれていないと いったような。 浅慮で気まぐれなpapiroにより、運悪くオオクチアホキリンという侮蔑語まがいの生命を与えられてしまい、お仕着せのアイデンティティに逆らえ ずに在るわけだが、彼とはもともと高い志を有した精神体だったのではなかろうか。そしてそんな彼にとり涎をだらしなく垂らしながら喋るほかない 自分の姿は屈辱的なものであり、なるべく見られたくないものであるがゆえに、自然と言葉もぶっきらぼうなものとなる。 そしてそう思って見てみると、大口の向こう側に垣間見える虚空を見つめる巨大な瞳は、ある種の特別な輝きを発しているように吾輩には見受け られた。そこに生命力をなくした濁りのようなものは一切なかった。 それこそが彼の本性なのではないか。そのように考え、吾輩は視線の交差するはずもない瞳を見つめた。 そんな吾輩に、こんどは下のほうから声が掛けられた。 「ほーほほーほ。ほはーヘフミへはんふ。ふひはひはんっへひひはひはは、ほーほおふほへほふほーははへはんふへ」 (どうもどうも。僕ぁネズミでやんす。クチバシさんって言いましたか、どうもお務め御苦労様でやんすね) 存在を忘却しかけていたネズミであった。 言葉を交わしアホというフレーズを含むそれに揺らぐもののあったキリンに対し、ネズミは想像を裏切らずなんとなくアホっぽい話し方をしたので、 吾輩は安心した。 「ほふほヒリンほはんははへはんふへ、ふはははひひょふほふはははひほーはふへふふほははひへ、ほふはふひふほほほひはふひほはへへ、 ほほひふひははひっへふふほほはっへ、ほほへーほーへひひへふんへはんふ」 (僕とキリンの旦那はでやんすね、無駄な体力を使わないようなるべく動かないで、とにかくいつも大きな口を開けて、そこに虫が入ってくるのを待 って、その栄養で生きているんでやんす) ネズミは先ほどの吾輩の質問に対しこう答えた。彼は阿呆のイメージをまるで覆さない代わりに、幸いなことに饒舌であった。高い精神性を感じ させるキリンもキャラクターとしては興味深いが、とにもかくにも会話が成立しなければ仕方がない。ネズミの存在には感謝すべきだろう。 それにしても彼の口から語られた、彼らの設定の、なんたる阿呆なことか。 もちろん彼らの姿を一見し、もしかしてそういうことなのではないかという疑念は既にあった。しかしネズミならばまだしも、キリンのような大型哺乳 類がそれだけの栄養で生きていけるだろうかという反論がそれを否定していたのだ。とは言え人間を除くすべての生きものは合理性に基づき生き ている。節分の日に運気を慮り、無言である一方を向き、大口を開いて太巻きを食べるといったような類の意味不明の行動を取るはずもない。それ ならば彼らがじっと静止して大口を開けている理由とはなにか。不用意に動き回ってエネルギー消費をすることなく、餌となるものが自ずと咥内に 入ってくるのを待ち受けているとしか考えられぬではないか。 しかし言うまでもなく、それはあまりにも情けない生き様である。もちろん吾輩は、人間らがうわごとのように唱え求めつづける「生きがい」などと いう空虚な概念を信奉する気は一切ない。が、植物と分けて数えられる、動物としての最低限の矜持は持ち得ているつもりである。生産者たる植 物が作り出したエネルギーをもらい受け放散するのが、我ら消費者たる動物の循環する生態系の中における役目ではないのか。そして彼らはそ れを果たしていない。放棄している。それはあまりにも阿呆だ。 しかし阿呆でも、それがpapiroより彼らに課せられた設定なのだから仕方がないと言えば仕方がない。よって重要なのは、その自らの阿呆さに対 する自覚性であると思う。その点キリンは偉い。彼はきっと、嘆いたところでどうにもならぬことを理解した上で、それでも自らの境遇を恥じている。 彼についてはオオクチアホという設定を与えられたことへの同情の念も自然と湧き上がってくるというものだ。 それに対しネズミは── 「ほほほへふひはひはん、ほひひふひはひはんははひほほへひははひひ?」 (ところでクチバシさん、時にクチバシさんは何をお召し上がりに?) 「吾輩? 吾輩も基本的には、同じく虫を少々」 「ほふへはんふは。ほへはーほふはひほひっほひほほへふひほはへへひふほはひははへはんふは。はほはふひははっひはははっへひはひっへ ひへ、ひひほはふほはひへひふひほほふほはふはははふほほへふへはんふほ。ひひひひひひひひ」 (そうでやんすか。それじゃあ僕たちと一緒にここで口を開けてみるのはいかがでやんすか。アホな虫があっちから勝手に口の中に入ってきて、い ちどやるとまじめに虫を獲るのがくだらなく思えるでやんすよ。しししししししし) なんと阿呆なことだろう。精神体そのものが腐りきっている。 「はっはひはふへふふほひはははふひひひへふへふんはは、ほへひははふひひはははは……」 (やっぱりあくせく動き回らずに生きていけるんなら、これに勝る生き方はな…………) バクリ。 そのとき、頭上から巨大な塊が落ちてきて、吾輩の視界を塞いだと思ったら、次の瞬間ネズミがいなくなっていた。思わず首を持ち上げ見やる と、黄土色の獣がしっかりと口を閉じて、舌の上の物体を咀嚼していた。 一体なにが起こったのか、推理するまでもなかった。吾輩は仰天した。 呆気に取られている吾輩を尻目に、歯が退化しているのかもしれない、キリンは優雅なまでにゆっくりと時間をかけ「それ」を嚥下した。「それ」は キリンの首に多少の膨らみを主張しながら胴体へと下っていった。 そしてキリンは吾輩のほうを見下ろしこう言った。口をきちんと開け閉めし、明瞭な発音でである。 「腹が減っていたんだ」 そこでようやく初めて吾輩とキリンの視線が交差した。そして吾輩はその瞳の濁りようにまた驚愕した。 それを見て吾輩は気が付いた。先ほど見上げたキリンの瞳が輝いていたのは、ただ光源に反射していたからに過ぎないということを。また、自分 が「口下手な阿呆は逆に高尚な理念を持っている」という宮沢賢治的な幻想を持っていたことを。真の阿呆はキリンとネズミ、どちらであったかとい うことを。 自分のことを阿呆だと認めていない阿呆ほど恐い存在はない。 吾輩はそのことに思い至ると、背筋を鷲掴みされるような寒気を感じた後、ダッシュで逃げ出した。 阿呆の恐怖から逃れんとがむしゃらに駆けていた吾輩は、いつの間にか足元に現われていた物体に気付くことができず、それに躓いて勢いよく 転倒してしまった。壁に向かって歩を進めると、頭上の嘴状の塊から先に壁にぶち当たってしまう吾輩だ。転倒した場合も当然ながら、まずそこか ら落下することとなる。むしろ水平ではなく垂直という観念においては重量という要素も大きく関わるため、なおのこと体躯のバランスを無視したサ イズとウエイトを誇るその部位から落ちやすい。かくして切っ先の尖ったそれは、papiroの固くも柔らかくもなき肉質の台地にズボリと埋まり、吾輩 の肉体を画鋲のごとくその場へと貼り付けた。 とは言え、前々からしつこく述べてきているように、吾輩のデザイン設計は破綻したものであるがため、実を言うとこういった事態は決して珍しいこ とではない。特に疲労が溜まり体に力が入らぬときなど、頭上の不相応の荷物を支えきれず、吾輩はたびたび重心を失っては転倒し、開かぬ嘴で 土を食らうこととなる。 しかし今回の場合、そのようなケースと同列に扱うのにはいささか抵抗がある。全速力で疾走し、そのままの勢いでボーリング作業のごとく杭を 地面に打ちつけた、その穿孔の深さは並のものではなかった。それとは具体的に言えば、焦点を合わせることがままならぬほどのすぐ眼前にまで 地面が迫り、また擬似ではない吾輩の真なる矮小な嘴までが少し地中に埋まっているほどである。 つまり吾輩はいま、クチバシたる吾輩が絶対にできぬはずの、「うつ伏せ」で臥している状態にある。これは実に生まれて初めての体験であっ た。そしてできることならば、これがその最初であり最後であることを切に願いたかった。やはり特殊状況でなければ実現せぬだけあって、なんとも 無理のある体勢だ。 それを打開せんため、肢と翼を地面に下ろし、吾輩は全力で押し出す。こうすると大地は力を受け止め反作用を返してくる。その力を借りつつ首 は、もちろん押し出さずに引き出す。しかし引くとはつまり後ろに押すことに他ならぬ。押すも引くも要は一緒だ。そして後方に向けてプッシュせんと する頭の背面には、幸いなことに虚空があるのみである。虚空は反作用を起こさないので好都合だ。これで吾輩の頭の上にチンピラの足でも置か れていたら、吾輩はそれの反作用によっていつまでも起き上がることができぬところだった。もっとも正確に言えば、気圧という存在が示唆する通 り、空気であれ反作用がまったく起こらぬということはありえない。しかしそれを無視できぬほど、さすがに吾輩は脆弱な体はしておらぬ。やはり虚 空であるのは幸いだ。 (……ん、……よっ、……は、……えいっ、…………おや?) しかし作用と反作用の力を自在に操る吾輩だというのに、一体これはどうしたことだろうか────抜けぬ。 (……えいやっ、……ほいよっ、……あらよっ、……こらせっ、…………およよ?) 何度か挑戦したところで、吾輩はいちど体を鎮めた。そしてゆっくりと深呼吸をする。いやいや、HAHAHA、吾輩はちょっと慌てていた。うん、そう だ。肢と翼を前面に向けて押し、首を後方に向けて押すという複雑なメカニズムを要する行為に、吾輩の関節は少々の混乱を来していたようだ。自 分でも気付かぬうちに、肢と翼を後方に、首を前方に押しやっていたのではないか。そうだ、そんな気がする。 そう思い、吾輩は肢と翼をしっかりと地面に置いた。そして首のほうでは後頭部の頂点らへんに意識を集中させる。引っ張られるイメージを頭に浮 かべるのだ。そしてふたたび踏ん張った。 (…………せえぇぇいぃぃやあぁぁぁっ! …………………………あれれれれ?) いや、いやいや! おかしいおかしい! こんなはずはない! マジで! ありえないってマジで! ……ああそうか。吾輩はこれまで、肢と翼と 首という、地面に直に触れている箇所にばかり気を取られ、腰の力というものを無視していた。これはいけない。すべての基本は腰である。腰に力 が入っていなければ、あらゆる型は不完全なものとなるに違いない。 そのことに思い至り、腰のひねりを特に意識して、吾輩は先ほどまでと同じ挑戦を試みた。 (…………すぅぅうおぉぉぉいぃぃやああぁぁぁっっっっ! ……………………って、うそぉ!) ちょいタンマ! マジありえねぇ! ちょ待てよ! マジ抜けねぇじゃん! なんなんだよこれ! さすがにまずいだろそろそろ抜けなきゃ! 今回 の文章、刺さったけど抜けないってことしかまだ書いてないじゃん! なにが「papiroの頭の中を描写」だよコノヤロウ! これじゃただの間抜けな 鳥さん物語だろうがボケ! 俺はなんだ、大きなカブか! ジジイとババアと畜生どもが力を合わせて引っこ抜くってか! いや、取り乱しても解決しないのだ。むしろ暴れれば暴れるほど体重によって突き刺さった度合は深まっていっているように思う。作用も反作用も イメージも腰も関係ない。とにかく落ち着くことが大事だ。 そのときだった。いきなり耳元でぼそっと囁く声があった。「だいじょうぶ?」とそれは聞こえた。 それを耳にし、吾輩はようやくある事実に思いを馳せた。すなわち、『果たして吾輩はなにに躓いたのか?』 首を動かすことができぬため、目玉だけを動かす。吾輩の体のすぐそばに、小さく面妖な生きものが立っていた。いや、立っているのだろうか。そ れさえも分からない。 生きものはボソボソと喋った。「僕……ノロマン」とそれは聞こえた。 それは体長20cmほどの焦げ茶色をした生きものであった。 まずハンドボールぐらいの球体があって、その底部から小振りな茄子ほどの胴体部が伸び、そこからヒトの指大の肢らしきものが2本生えてい る。肢の先端は幾本かの指に分岐し、腹にはヘソということだろう×印が刻まれ、頭部と思しきハンドボール部分には、ハンドボールの縫い目の模 様よりもよほど浅くぼんやりとした凹凸で、目と鼻と口が刻まれている。それの形作る表情はなんとも痛々しいもので、なにか深刻な悩みごとでも 抱えているかのようだが、先ほどから表情がそこからまるで動かないところを見ると、どうやらそれが地であるらしい。ちなみに腕らしきものはつい に見つからなかった。目の前に立っていたノロマンと名乗るそれは、そんな生きものであった。 我輩はそれを、依然として土中に頭上の塊を埋め、抜けず身動きが取れぬままに眺めている。そんな我輩がこんなことを言うのはどうだろう。そ んな風にも思う。しかしやはり言わねばならぬ。 なんなんだこれ。 たとえば吾輩は鳥である。恐竜の子孫などと噂されるところの鳥類だ。これは紛うことなき明白なる事実である。また先ほどの阿呆2匹、彼らは と言えばキリンとネズミであった。それらはどちらも哺乳類として分類される生きものだ。もっともネズミに関しては、分類されていた、と過去形にす るべきかもしれない。 それに対し、こいつはいったい何類であろうか。 見れば見るほど、ノロマンと名乗ったこれは、既存の生きものの進化体系から逸脱した形態をしている。逸脱というかもはや無視だ。シカトだ。挑 発だ。動物学という学問体系を虚仮にしているとしか思えない。果たして本当にこいつも、我輩と同じくpapiroによって創造された生きものなのだろ うか。ひどく疑わしい。 そんなことを考え、我輩は目の前にいる生きものに向け、胡散臭さを含んだ視線を向ける。20cmほどの体長しか持たぬ生きものなのに、今の我 輩では見上げなければならぬのが哀しい。そんな風に思っていたら、ノロマンは我輩のことを見つめながら、ふたたびボソボソと聞き取りにくい発音 で言葉を発した。こう。 「あんた……なに? なんなの? どういう生きもの?」 「…………」 オーケーオーケー。先ほども言ったが吾輩は自認している。目の前にいる生きものはダーウィンが見たら卒倒しそうな外見をしているが、彼から すればいきなり彼の世界にやってきて、そのまま勢いよく体の一部を地面に突き刺し身動きが取れなくなり困っている間抜けな鳥さんのほうが、よ ほど不可思議な存在であろう。それはそうだ。まったくもって納得できる。オーケーオーケー。我輩はぜんぜんムカついていない。むしろ堕ちるとこ ろまで堕ちて、いっそ清々しい気分でさえある。そうだね、我輩ちょっと阿呆らを相手にして調子に乗っていたところがあったかもしれないね。ここら でちょっと鼻っ柱を折られておいてちょうどいいかもね。まあ鼻っ柱折られると言うか、クチバシが土中に刺さってるんだけどね、AHAHA! 笑えない。しかしこんな生きものだってある意味で貴重なサンプルだ。我輩は怒りを押し込みなんとか気持ちを落ち着けて、できうる限りの紳士 的な口調でノロマンに向かって声をかける。 「……我輩はクチバシである。papiroの脳内を描写するため、こうして脳内を徘徊している」 ぼそり。 「……刺さってんじゃん。って言うか徘徊できてないし」 カチン。 「……まあ君とはきょうだいのようなものかもしれないな」 ぼそり。 「……ありえねー。って言うかテンション下がる」 カチン。 カチン。 「……よかったら君の与えられている設定を教えてくれたまえ」 ぼそり。 「……いやいや、こっちが知りたいから。っって言うか結局なんなの、あんた?」 カチン。 カチン。 カチン。 「…………」 大きく深呼吸した。頭に酸素を送り、精神を鎮める。 これは怒りを抑えるためでは決してない。そうではなく、力を溜めているのだ。我輩はふたたび肢と翼を地面へと押し当てた。殴ろう。時間を掛け てしっかりとポジションを吟味し、最も効率よく力が作用される角度を調節する。絶対に殴ってやろう。もちろん腰の捻りも忘れない。たとえ衝撃で 腰骨が折れても一向に構わぬ。我輩は目の前にいるこいつを殴らなければならない。行く。 「…………ちえええええぇぇぇぇぇっっっっっ! …………」 ――――――。 「ねえ、だからさ、結局なんなのよ、あんた?」 ノロマンが相変わらず我輩のことを見下ろしていた。しかも半笑いで。 ノロマンの嘲笑はなんとも憎たらしいものだったが、我輩はここに来て、急速に自分の中から怒りという感情が収まっていくのを感じていた。そし てその代わりに我輩の胸に去来したのは、これまで味わったことのないような恐怖心であった。すなわち、もしもこのままずっとクチバシが抜けな かったら、という恐怖だ。 我輩クチバシとは永遠にこの場に突き刺さり、性格の悪いノロマンに嗤われながら朽ちていく、そういう運命なのだろうか。我輩とはそういうキャラ クターだったのだろうか。 我輩にしか描写できぬものとしてpapiroの脳内を巡る旅に出、まずレターズガールズたちから敗走し、散らばる泥たちを避けるのに苦心し、身体 が震えるほど恐ろしい阿呆から逃げ、そしてここで台地に突き刺さっておしまいか。papiroの脳内にはまだまだ未踏の地があるだろうに、いろいろ な生きものがいるだろうに、我輩がそれを見ることは赦されないというのか。 恐怖はやがてじわじわと、絶望と呼ばれるものへと変容していった。 我輩はそっと空に目をやる。首を動かせないため、眼球をぐいっと動かすほかない。その無理な動きに、緊張した視神経が悲鳴を上げる。しかし 我輩はそれを無視する。それでも我輩は空を見上げなければならないのだ。なぜなら、そうしないと目から熱いものがこぼれ落ちてしまうではない か。 ぼそり。「ねえちょっと。って言うか質問してんだけどさ、聞いてる?」 ノロマンは見た目どおり陰湿でしつこい。我輩は視神経の発するうめき声とともに、彼の言葉もまた無視した。すでに我輩の視界に彼の姿はな い。涙でにじむ我輩の瞳では、水色の空しか捉えることはできない。翼が退化し飛べなくなってしまったけれど、なにしろ我輩は鳥なのだ。空こそ 我輩の世界であり、故郷。土中に刺さり朽ちるとも、見納めせめて空がいい。そういえばこんな事態にならなければ我輩にとり不可能だった、この うつ伏せという体勢は、考えてみると空を飛ぶときの格好に近い。これはなにかの偶然か。 ぼそり。「なんなの、あんた。ずっと上見て。って言うか空になんかあるわけ?」 ――そのときだった。 papiroの脳髄の天井、雲ひとつないヴァーチャルな水色の空を、なにかが猛スピードで流れていった。 これは決して目の錯覚ではない。たしかに視覚そのものはあまり信頼のできるコンディションにないことは事実だが、視覚以外の感覚でも反応す る部分があった。空気感としか言いようのないものが全身に伝わって、実際に空に何者かが訪れたのだということを示していた。 そしてそれは実体をしっかりと捉える暇もなく、残像を刻みながらあっという間に、空の端から端までを突き抜けて行った。さながらそれは神の放 った矢のごとく。 なんだったのだろう、いまのは――不思議に思っていると、すぐそばにいるノロマンの様子がおかしいことに気が付いた。矢が消えていったほう の空を見つめながら、体を小刻みに震わせている。その表情は分かりにくいが、ある種の興奮をしていることは間違いないようだ。 やがて時間差で、空からなにかが落下してきた。 これはいま見えた一瞬の矢と関係のあるものなのだろうか。そういえば落下物は、矢の軌跡に沿ってもたらされているようにも見えた。光に反射 してキラキラと輝くそれはまるで、成層圏で燃え尽きてしまう流星の欠片だ。もしかして先ほどのあれは流れ星だったのだろうか。しかし果たして papiroの脳髄内において、流れ星や成層圏などといったものが存在するだろうか。 しかし生命は宇宙から流れ星に乗ってもたらされた、という説もある。と言うよりも、大地を大地として考えることがそもそも間違っているのだ。大 地を含め宇宙のすべてはひとつなのだから。地球は地球のままいつまでもあるわけではない。地球が終われば地球を構成していた原子は拡散 し、宇宙をさまよい、あるいはふたたびなにがしかの構成要素となるだろう。人工衛星は宇宙に拡散し、流れ星は宇宙からやってくる。世界の仕組 みがそうならば、またその仕組みの構成形のひとつである人間、そしてpapiroだって同じことだ。つまりpapiroの脳髄に流星が舞い降りようと、それ は一向に不思議なことではない。もっとも我輩をはじめとしたキャラクターたちは思念であり、思念すなわち記憶は電気信号であるから物質ではな いわけだが、観念とは往々にして実存を模して形作られるものに違いあるまい。 そんな風に納得し、我輩はゆっくりと星屑が落ちてくるのを待った。地球の生命が遠い宇宙からもたらされたなら、これはさしずめ、papiroが吸収 した新しい知識ということにでもなるのだろうか。その電気信号がわれわれには流れ星、神の放った矢のように見えるとは、なかなかロマンチック じゃないか。 そこまで考えて、ふと思い出しふたたび横を見やると、ノロマンが不思議な行動を取っていた。 これ以上は不可能というぐらい大きく、上空に向けて口を開いているのだ。まさか食べる気なのか? そう思った瞬間、我輩の体に、ノロマンの口に、幾多もの星屑が舞い落ちた。衝撃はなかった。 ただ、ウナギの糞のような嫌なにおいが辺りに立ち込めた。 なんだったのだろうか今のは。まるで夢幻のごとき出来事であった。起こったのがどういうことだったのか、さらには本当になにかが起こったのか ということさえも分からない。 しかし依然としてすぐ脇にいるノロマンをそっと見やると、星屑の落下に向かって張り裂けんばかりに口を大きく開けていたかの生きものは、今は それを閉じ、むぐむぐと咥内の筋肉を躍動させていた。 喰っている。頭ばかりが体躯のほとんどを占めるその構造からすると、それはもはや全身運動の様相を呈していた。ウナギの糞のような怪しき落 下物にどれほどの栄養価があるのかは定かではないが、これでは食物の嚥下だけで一仕事であろう。まったく、なんたる欠陥多き生きものであろ うか。空から舞い落ちるうつろなるものが主たるエネルギー源なのだとしたら、これに動物としての技能は要らぬだろう。先刻の大口阿呆どももそう であったが、papiroの脳内にいる生きものにはどうしてこういう輩が多いのか。動かぬならばじっと一所に根を張り、なるべく栄養の吸収をしやすい ように拡がりのある全身を持てばよい話ではないか。それはすなわち植物の生き方である。それで十分ではないか。脚を持ち目を持ち口を持ち、 そしてその口から地中に突き刺さり動けぬままの吾輩への侮蔑の言葉を発する必要などは一切ない。 いや、こんなことは言うだけ損である気がする。その空しい口から導き出された悪口に、傷ついているのは吾輩自身ではないか。だとしたら吾輩 の立場はますます空しいものとなってしまう。この状況において我輩が我輩のせめてもの尊厳を守るためにできることは、ただ吾輩のことを虚仮に するこのノロマンという生きものを貶めずにいる、というそれだけなのだ。ああ、なんと哀れなイジメられっ子の思考であろう。 まずい。状態の悲惨さが精神までもを蝕んできている。状況がどうしても改善できないのならば、せめて頭の中だけはプラスにしておかねば、も はや堕ちる一方ではないか。そう思い吾輩はなんとか意識の上だけでもの好転を試みる。だが全身に付着した流星の欠片、そのウナギの糞のよ うな悪臭がそれを阻み、吾輩の矜持をさらに潰えさしていく。ああ、吾輩は地面にクチバシが埋まったまま身動きが取れず、しかも全身ウナギの糞 まみれだ――。そしてさらには吾輩がこれを臭いと思えば思うほど、それを食べ活動している生きものに見下されている自分はなんなのだ、という ことになり吾輩はますます哀しい存在となる。堂々巡りだ。 もはや吾輩は目を開き思念を連ねること、そのこと自体が苦痛になってきていた。それを続ければ続けるほどプライドが朽ちていくのならば、しな いほうがマシだ。どうせこのまま命を落とすのならば、これ以上みじめにならずに死にたい。それが吾輩の侍道。逃避だと笑いたくば笑うがよい。 ――吾輩は瞼を閉じ、心を無とした。 視覚がなくなったことにより、閉ざすことのできぬ感覚がかき立てられた。まずは嗅覚。暗闇の中に身を置いた途端、強烈なウナギの糞臭が脳を 襲った。しかしそれも少ししたら気にならなくなった。 次にやってきたのは聴覚だった。ノロマンの咀嚼音に混ざって遠くのほうから、ブウゥゥン、という唸りのような音が聴こえてくる。それが一体なん の音か、もちろん分かるはずもない。目を開けて確認しようかとも思ったが、マイナスに進行する思惟がそれを否定した。papiroの脳内を描写せんと 希望に胸をふくらませこの旅をはじめた瞬間が懐かしい。もうなにも見たくない。 ブウゥゥン……ブウゥゥン……ブウウゥゥゥン……。 しかし音はだんだんこちらに近付いてくるようだった。どうやらノロマンは食事に夢中であるらしくまだその音には気付いていないようだが、それは たしかにこちらにやってきていた。地響きのような音を立てながらゆっくりと、しかしまっすぐに。 ブウウゥゥゥン……ブウウゥゥゥン……ブウウウウウゥゥゥゥゥゥォォォオオオッッッッ。 音はやがて体のすぐ近くにまでやってきた。 「ひっ」そこでようやくその存在に気付いたらしく、ノロマンが小さく声を上げた。しかしそのあとの言葉は続かなかった。ズボボボッッという小気味よ い音を立てて、ノロマンの気配は辺りから消えた。 ブウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥォォォォォォォオオオオオオッッッッ。 無機質でありながら凶暴。音はいよいよ近い。 そして次の瞬間だった。吾輩はわき腹の部分に強い衝撃を感じ、全身がむわっとした浮遊感に包まれた。 スポンッ。 ――抜けた。その吸引力に大地がようやく、掴んで離さなかった吾輩のクチバシを解放したのである。 一体なにが起きているのだ。吾輩はそこでやっと目を開ける。そして驚いた。吾輩は地上数センチの位置に浮かんでいた。一瞬まさか鳥たる吾 輩の本能が目覚め飛べるようになったのかと考えたが、依然としてわき腹の部分に刺激があった。なにかが吾輩のことを吸い込もうとして持ち上 げている? 吾輩はゆっくりと視線を背後に向ける。するとそこにいたのは、吾輩よりも一回りほど小さく、しかし長く奇妙な形をした嘴を持ち、アヌスより果て の見えぬコードを伸ばした一匹のカラスであった。 カラスの目は不気味なまでに無機質だった。そこからは感情というものが一切感じられぬ。 ただただ吸っている。嘴から発せられるそのおそるべき吸引力によって、吾輩の体はなおも中空にあった。わき腹に鈍痛を感じながら地上すれす れの位置になんとか浮かぶという、なんとも不恰好な状態で。 それは吾輩に本来の鳥としての泡沫の夢を見せてくれたが、やはりずっとこのままでいるわけにもいかなかった。それに時間が経てば経つほ ど、この状況における吾輩の頭のはたらきは冷静になり、「あ、そう言えば飛んでねえや、サイクロウに吸われてるだけだ」ということが明らかにな ってしまう。すでにして吾輩はそのことに気付きはじめている。それが確信に変わる前に、「でももしかしたら吾輩はちょっと飛んだのかもしれない」 という、自転車が飛んだのはキキの魔法能力のおかげなんだろう的な、要するにそういう気持ちのある中で吾輩はこの浮遊を終わりにしたかった。 幸いにも、腰をねじり脇腹にかぶりつく吸着面と吾輩の体の間に空間を作れば、その接続は容易に外れそうに窺えた。それはさながら掃除機に おいて誤って座布団を吸ってしまったときのごとくにである。 吾輩は大空への思いを胸いっぱいに馳せ、万感の思い、潤む瞳、震える身体、怖い初体験、グッバイ青春、恋しなければこんな哀しい想いもし なかったのにね的な気概でその動作を行なう。 どさり。 根菜のごとく地中に埋もっていたと思ったら、大先祖への回帰としての飛翔を果たし、それはさながら『個体発生は系統発生を繰り返す』という例 の法則のごとく、はるかなる進化の工程を体験した吾輩は、かくしてクチバシという特殊な鳥類としての吾輩のフィールドである、地上へと帰還し た。ところで多少テンションが上がって吾輩はいま多少おかしなことをのたまわったが、どれだけ系統を遡っても、鳥類たる吾輩に根菜のごとく地 中に刺さっていた時期がないことは言うまでもない。 ただし原子レベルで考えるならば、生物界は循環して成り立っているわけで、土から草が生え、その草を草食動物が食べ、それを肉食動物が食 べ、その糞を昆虫が食べたり、その昆虫を吾輩たち鳥類が食べたりするわけで、だから吾輩が吾輩の成り立ちを追体験するとなった場合、吾輩に はたしかにDNAとして連綿とつながる鳥類の系統があるわけだが、同時に原子レベルの記憶においては土であった時期もあるということになる。 そう考えれば吾輩が根菜の気持ちになることもまたなんら不思議ではない――。 ちなみにこうした思考をしている吾輩は今、仰向けになり吾輩のものではない虚ろなる中空を眺めている。吸引から地上へ舞い落ちるとき、ふた たび吾輩の頭の上のクチバシが地中に刺さらないようにするくらいの知恵は幸運なことに持ち合わせている。噂によると昆虫にだって学習能力と いうものはあるらしい。ならば「噂によると昆虫にだって学習能力というものはあるらしい」と述べる吾輩にそれがないはずはないという理屈になる だろう。落ちるときのポーズをどうするかは運動神経が大きく関わってくるため、二本の足でかっこよく直立することはできなかったが、吾輩の頭の 中の消しゴムがまた突き刺さらないよう首を捻るようにして落ちることが、立派すぎるほどに立派な吾輩にとっての栄光への架け橋である。 よって吾輩は今、ぼんやりと地べたに寝そべり、上を向いている。空にはpapiroの頭の中特有の、よく分からない色の曇りが掛かっていた。しか し吾輩は決してそれが嫌いではない。「晴れの日と雨の日と曇りの日、どれが好き?」などと訊かれれば、吾輩は迷うことなくこう答えるはずであ る。天気なんて関係ないんだ、君と一緒にいられる日が僕は好きなんだ、と。 ちなみに吾輩の身体を脱落させた掃除機お化け鳥――先ほどチラリと口走ったが、吾輩は彼のことをサイクロウと呼びたい――は、吾輩がジタ バタしているうちに、まるで何事もなかったかのようにはるか先へと歩みを進めてしまっていた。吾輩のすぐ横には、彼のアヌスよりつながるコード だけがあった。彼が歩いてきた方向にはコードが地平線まで続き、彼が歩いていった方向にもすでに目に映るのはコードのみである。同じ鳥類― ―それも見受けしたところ吾輩と同種の飛べない鳥――として、吾輩を根菜の悪夢から救ってくれた救世主として、そして自分が飛べない空にそ の得意の吸引力を用いて吾輩だけを招待してくれた心優しきパトロンとして、話をしたい気持ちもあったが、それはもはや不可能だった。そして今 後いつか吾輩と彼がふたたび出会うということもおそらくないのだろう。二者の進む道は、ズレていたからこそ交差したのだ。ズレていたから逢えた のだ。326が昔そんなことを言っていた。 「いま326て……」 突然だった。吾輩のすぐ近くからつぶやくような声が聞こえたかと思うと、目の前に手が差し伸べられた。それは人間の手であった。ただしまだこ の姿勢では、頭の中の消しゴムが邪魔で顔は見えない。立ち上がるタイミングを見計らっていた吾輩は、その親切なクムジャさんの差し伸べた手 を取って立ち上がった。 そして訊ねる。「あなたは何者か」 青年は答えた。「世界源子教団の者だ」と。 吾輩はなぜか世界源子教団という宗教団体の道場にいた。青年に連れてこられたのである。 そして今の今まで小一時間ほど、青年より世界源子教団の理念についてマンツーマンで教授されていた。今はようやくそれが終了し、青年は 「休憩にしましょう」と言ってどこかへ行ってしまったところである。 道場に独り残された吾輩は、なにはともあれまず正座によって血流の凝り固まった脚を解放した。いやはや世界は広い。まさかこの世において 鳥に正座を強いる阿呆がいるとは、さすがの吾輩も予想しなかった。 吾輩が思うに、実際的見地において世界を良いものにするためのはたらきが政治なのだとしたら、精神的見地においてこの世界を良くするシス テムのことを宗教と言うはずである。ところが鳥類に正座を強いるようでは、その目標はとても実現できぬことは確実である。少なくとも鳥類にとっ てそれは間違いない。それだのに先ほどまでの説教は先ほどマンツーマンと申したように、鳥である吾輩のみに対して行われたわけである。鳥類 に正座を強いる、鳥類だけは絶対に幸福にできない宗教が、鳥類だけに語られたのだ。これほど愚かな行為を吾輩は、実に小学校の授業カリキ ュラムの中にしか他に知らぬほどである。 ところで青年の唱えた世界源子教団の教義というものをまとめるならば、「世界は原子よりも小さな源子でできており、それの構成の仕方だけが ものの形を決める。だからすべてものは同じなのである」ということになるだろうか。特に目新しい意見ではない。むしろ常識だと言えよう。新宗教 はその機構の常としてその内側だけで通用する新しい言葉を作り出す傾向があるが、「源子」などというものはまさにそれである。科学においてそ れは「電子」や「素粒子」と言われる。すなわち青年の唱える宗教観、世界観などは、言うなれば既にして科学に裏打ちされた、定説なのである。 とは言えそこから展開される、「だから想いは願えば通じるのだ」という考え方は、わりと新しいかもしれない。「成分は一緒」ということは、完成品 の性質を決めるのは気の持ちよう、すなわち精神の在り方のみということになり、それは精神性を高めることに関しては専門とも言える宗教のシス テムに、ああ、なるほど合致する。青年はここに宗教団体としての勝機を見出したということか。あるいは商機を。 こうして考えると結果的に、科学と宗教をいちおうカバーしつつも、青年の話はわりとロマンチックなものに終始していると言えるのかもしれない。 さすがはpapiroの頭の中の宗教である。結局はムードか。 どちらにしろ吾輩には関係のない話であった。苦痛なる正座で拝聴した話の感想としては結局それである。吾輩はあくまで吾輩なのであり、そ れで一向に困っておらず、他人の教えに縋る必要はまったくない。吾輩は宗教学には興味があるが、あるひとつの宗教そのものへ傾倒しようとい う思いはまるでない。 青年はpapiroの脳内のどういった作用か、吾輩が地面に寝そべりながら、自らが地中に埋まる根菜だったころへ思いを原子(青年の言葉では源 子)レベルで馳せていた、言わばその思考の発する薫香によって、それがよほど青年にとって心地よいものであったのだろうか、フラフラと吾輩の もとへやって来たようである。もちろん彼の口から直接そうあったわけではないが、あれが偶然だとしたらあまりにもタイミングが良すぎる。それより はpapiroの頭の中の共同生活者として、そういった作用があるのだろうと考えたほうが自然だ。吾輩の思考はどうやらpapiro内のキャラクタを呼び 出す能力があるらしい。 そのときだった。 「やあ、お待たせ」ガラガラと道場の扉が開き、青年が戻ってきた。両手で持つお盆の上には、ティーカップが2セット置かれている。「コーヒーでも 飲んでリラックスしようじゃないか」 ひと段落ついたところで青年と吾輩が向かい合ってブレイクしたところで、生まれるものは何もないと思えたが、わざわざ用意された嗜好品を拒む 理由もない。吾輩は羽の先を器用に動かし、カップを持ち上げた。なにしろ吾輩の頭の上には巨大な障害物があるがゆえ、普通の鳥がするように 飲まんとする液体に向け頭を下げていては、いつまでも真なる嘴が液体に届かない。そのためその代わりとして吾輩はきわめて羽先の自由が利く ような機構になっており、こういう芸当が可能なのである。まったく我ながら、ほとほとよく分からない進化であると思う。 「…………あっ」しかしコーヒーに口をつけようとしたところで吾輩は気付いた。「ミルクはないのか?」 「…………えっ」すでにブラックのまま液体に口をつけていた青年は、ミルクを所望する我をしげしげと眺めた後、「庭に牛を飼っているから、そこか ら絞って直接カップに入れたらいい」と言い放った。 バカにされているのかと思ったが、青年はいつまで待っても冗談だとは言わない。どうやら本気らしい。 仕方なく吾輩も覚悟を決めた。このまま引き下がっては負けたようで悔しいし、なにより吾輩はブラックコーヒーは苦くて飲めぬ。痺れの取れた脚 ですっくと立ち上がると、庭のほうに向かって歩を進めた。 そして扉を開ける。そこには果たして――牛がいた。胴体に「人間だもの」という文字にしか見えない模様のある牛が。 それを見て吾輩は気付いた。 |